「経済」×「分配」による包摂的な成長
「人」が企業の価値を高める
人材は企業の競争力の源泉だ。より多くの人や企業が〝豊かさ〟を実現するためにも、誰もが活き活きと働ける環境づくりが欠かせない。多様性を生かす企業経営を後押しし、かつ人材の労働生産性をどう高めるか。経済産業省は、企業の成長の果実を「人」に還元し、次の成長につなげる仕組みづくりを模索する。
「人への投資」見直す動き
「人的資本経営」。多くの人は聞き慣れない言葉かもしれない。人材を「資本」として捉え直し、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげるという経営の考え方で、投資家や経営者などの間で注目されている。
新型コロナウイルスによる働き方の変化、デジタル化の進展による産業構造やビジネスモデルの変化、少子高齢化や人生100年時代の到来による就業構造の変化、個人のキャリア観の変化など、企業において人材を取り巻く環境は転換期を迎えている。企業人材が担うべき役割や求められるスキルが大きく変化しているのだ。海外企業では人材育成など、「人への投資」に関わる戦略を見直す動きが活発化するなど、この変化への対応が、中長期的に企業価値を大きく左右するとの危機感がある。
採用や組織マネジメントのあり方の再検討、時代に合った能力を身につけるためのリスキリング(学び直し)、新たな環境で自らの力を試すことにもなる他企業出向。企業が「人」に対して行える施策には、多様な選択肢がある。問われているのは、これらをどう組み合わせ、新しい時代の企業の成長に必要な人材を育て、確保するか。それは、経営戦略としての「人への投資」だ。
このような人的資本経営の考え方は、日本でも広がりをみせている。東京証券取引所は今年6月、上場企業の行動原則をまとめた「コーポレートガバナンス・コード」を改訂。企業に対し、人への投資について自社の経営戦略・経営課題との整合性を意識して分かりやすく情報を開示することなどを求めた。産業人材課の島津裕紀課長は「経営陣が率先して、自社の人材や人材戦略がどのように経営戦略の実現や持続的な企業価値の向上につながるのかについて、対外的に発信し、投資家と対話を行うべき」と指摘する。
今年7月、経済産業省は、有識者、投資家、企業関係者が参画する「人的資本経営の実現に向けた検討会」(座長:伊藤邦雄 一橋大学CFO教育研究センター長)を立ち上げた。人的資本経営の啓発から、人材に関わる経営課題の整理、企業がどのように情報を開示し投資家と対話するかなど、理念から実務まで幅広いテーマを議論する。
検討会で議論するなかで、共通の課題が浮き彫りになった。日本企業の多くが「企業価値を高めるため人にどう投資をするか、という戦略的な議論ではなく、採用や人材配置に偏った〝人事〟の議論をしている」(島津課長)という実態、その議論が「人事部という一つの部署のみで行われている」(同)という課題だ。人への投資を人事に閉じた話ではなく、経営戦略の一環として捉えるべき、というのが「人的資本経営」の考え方だ。労務管理が中心となる従来の人事部の業務では、経営戦略まで目を向けるには限界がある。経営層の強いイニシアティブのもと、部署横断で人材戦略を検討することが必要だと指摘する。
「人への投資」を適切に行うためには、どんな施策が有効だろうか。勤務条件や業務内容などをあらかじめ規定するジョブ型雇用のような〝制度〟を導入することだけが有効とは限らない。企業や事業内容ごとに人材面の課題はさまざまで、終身雇用や年功序列を前提とした日本型雇用の方が、長期でキャリアを描けることなどから有効な場合もある。単に新しい制度を導入するのではなく、個々の企業の経営戦略に応じた対応を検討する必要がある。
経済産業省では、上場企業を対象に「人的資本経営に関する調査」を実施した。検討会の意見も踏まえ、課題や提言のとりまとめを2022年春にかけて行う。島津課長は「企業が競争力を高めるため従業員に適切なリスキリングを行い、能力に見合った報酬を支払う。さらに、個々にやりがいのある仕事を与えて、それが自らの人生で成し遂げたいこと重なり合う状態に近づける。こうした人材戦略を目指す企業が1社でも増えれば、『誰もが活き活きと働けて、より成長を実感できる社会』の実現に近づけるはずだ」と思いを語る。
国際社会が注視する「ビジネスと人権」
より良い社会の実現には、誰もが働きやすい環境を構築することが重要だ。世界に目を向けると、生産現場における強制労働や児童労働などを指摘する声が挙がっており、ビジネスにおける人権侵害の根絶に向けた動きが活発化している。
自ら雇用する労働者の人権に企業が配慮することは当然のことだ。ただ最近は、欧米諸国を中心に、取引先の労働者の人権に対してまで、一層の配慮を求める動きがみられる。ドイツでは、そうした人権リスクに対して救済措置をとる「人権デューデリジェンス」を一定規模以上の企業に義務づける法律が連邦議会で可決された。ドイツ国籍の大企業のほか、現地に支店・子会社を置く外国企業(従業員3000人以上。2024年からは1000人以上)も対象になる。
法律が施行されると、ドイツ政府が企業の取り組みを監視するようになる。通商戦略室の門寛子室長は「対象となる企業は、一次取引先の企業まで責任を負うことになるため、日本企業への影響も大きい。現地の日本企業は商取引をする際の規約にあたる『サプライヤー契約』を急ぎ見直していると聞いている。将来はさらに厳格な条件の下、EU加盟国全域を対象にした法整備も議論されている」と語る。
人権問題に国際的な関心が高まっている背景には、米中対立の影響があるという。「米国バイデン政権の誕生で、有志国間で(人権を重視する)価値感の共有をより強固にしている」と指摘する。中国の新疆ウイグル自治区などでの人権状況が国際的に注目を集めているように、日本企業はサプライチェーン(供給網)における人権リスクと今以上に向き合うことが求められる。
実際、繊維産業のような労働集約型の産業や電気電子部品などのように海外拠点を多くもつ産業において早くから人権リスクが認識され、業界ごとにガイドラインを整備する動きが出てきている。
経済産業省では、7月に「ビジネス・人権政策調整室」を設置し、業種横断で「ビジネスと人権」の問題に対応できる体制を整えた。まずはアンケート調査を通じ、日本企業の課題や対応状況を把握し、具体策の検討に活かす。同室室長を兼務する門氏は「企業が労働者の人権へ配慮するのはこれまでも当然だったが、今後は、適切な対応を怠れば、取引停止に追い込まれるリスクがある。人権は事業継続性にも関わる課題だ。取引先、投資家、消費者から日本企業が選ばれ続けるよう、様々な面からサポートしていきたい」と意気込む。
課題とされるのは中堅・中小企業の対応だ。門室長は「人権侵害は、意図しなくてもどの企業にも起こり得る」と前置きした上で、「まずは意識を持ち、社内の体制を整える。〝構えと対話〟の姿勢でいることが大切。事例が発覚しても無かったことにせず、誠意を持って対応しそれを開示することで、良識ある取引先や投資家、消費者は理解を示すはず」とアドバイスする。
全5回にわたり、経済産業省のマニフェストである「経済産業政策の重点」を特集し、解説を行った。世界は、環境や経済安全保障、分配など多様な価値観を経済的な豊かさと両立させる競争にシフトし、社会課題や多様性に配慮した企業経営は日本でも広がりをみせている。将来の社会・経済の課題解決の鍵となる技術や物資、規制・制度などに着目し、ガバメントリーチを拡張する新たな産業政策へ舵を切った経済産業省。実現したい未来のために、官民がその垣根を越えて挑戦することが必要だ。
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