試練のWTO「裁判」。打開に向けた日本の新たな一手は?
貿易を巡る国同士の対立を巡り、世界貿易機関(WTO)の紛争解決システムは重要な役割を果たしてきたが、足元では深刻な事態に陥っている。裁判の2審にあたる上級委員会は、審理を担う上級委員の選出で加盟国の同意が成立せず、2019年12月以来審理ができないでいるからだ。1審のパネル(小委員会)の結論に不満がある場合は、審理されないことを分かったうえで上級委に持ち込む「空上訴」が横行し、多くの紛争が棚ざらしにされている。
WTOの恩恵に浴してきた日本はどう臨むべきか。経済産業省が設けた「WTO上級委員会の機能停止下の政策対応研究会」は、6月にまとめた中間報告書で、MPIA(Multi-Party Interim Appeal Arbitration Arrangement、多国間暫定上訴仲裁アレンジメント)と呼ばれる上級委の機能を代替する仕組みへの参加や、空上訴されたときに対抗措置をとるための制度整備の検討を提言した。
座長を務めた上智大学の川瀬剛志教授に背景や狙いを解説してもらった。
紛争解決が棚ざらし。「違反した者勝ち」横行は日本に重大損失
――― なぜWTO上級委員会は審理ができなくなっているのでしょうか。
直接的には、米国がコンセンサス方式(=全会一致)による上級委の委員の選任手続きを止めていることが原因です。逆説ですが、WTOの紛争解決システムがうまくいきすぎたからだとも言えます。
これまで、準裁判所的な機関として、自立性を持って法的判断を積み重ねてきました。ところが、米国の期待は、当事国間の利害を調整するような役回りにあったのです。上級委に関しては、本来の役目を逸脱し、「解釈」と称して条文に意味づけを加えるなどして新しいルールを作っていると批判しています。米国内でこうした姿勢には超党派の支持があり、今後も方針転換の可能性は低いと考えられます。
――― どのような影響が出ていますか。
WTOの紛争解決システムの機能自体が大いに低下しています。
上級委が再開しない限り、解決の見込みがない案件は21件たまっています。紛争解決手続きに持ち込まれる案件自体も、2019年までは年平均20件超でしたが、2020年は5件、2021年は9件と減っています。
どこかの国が協定違反と思われる措置を取ったとしても、中立的に判断して、必要ならば是正を勧告する存在がなくなったわけです。つまり、違反した者勝ちです。ルール自体の意味が失われてしまいます。皆がルールに従って行動しなくなると、国際通商関係で何が起きるかという予見性が低くなり、ビジネスがしにくくなります。日本のようにルールを重視し、一方的な報復措置を取らない国にとっての損失は、特に大きいです。
上訴に代わる仲裁手続き「MPIA」 対中国でも効果的
――― 日本が参加を検討するべきだと提言したMPIAとはどのようなものですか。
上級委への上訴に代わる仲裁手続きとして、EU(欧州連合)が主導して作りました。現在オーストラリアやカナダ、中国を含む25か国・地域が参加しています。内容としては、審理の迅速化を促すなど米国の主張を一部受け入れながらも、上級委の手続きを基本的には踏襲しています。パネルの結論に不満がある場合は、上級委に代わり、MPIA参加国・地域の中から選ばれた仲裁人が3人1組で判断するのです。
――― 加わるメリットは。
何よりも、ルールに基づいた通商制度を取り戻すことにつながります。
現実的には、MPIAには最大の貿易相手国である中国が入っていることの意味は大きいです。中国が発動したステンレス製品に対するアンチダンピング措置について現在、パネルで審理されていますが、入らなければ、勝ったとしても空上訴される可能性があります。
これまで入らなかった最大の理由は、米国への配慮でしょう。しかし、米国は、中国に対して301条のような強い対抗措置を独自にとれますが、日本に同じようなことはなかなかできません。日本はMPIAのようなルールに基づいて、中国の保護主義的な通商慣行を是正させるしか方法がないのだと訴えて、米国の理解を得るべきです。
日本もMPIAに入れば、MPIA参加国・地域に対しては空上訴できなくなります。外交姿勢の一貫性を重視すると、MPIA非参加国にも空上訴しにくくなるでしょう。これまでの歴史を振り返っても、自由貿易にコミットしてきた日本は、訴えられるより、訴えるケースの方が断然多いのです。
――― 同時に検討を求めた空上訴対抗措置とは。
典型的には、相手国が空上訴をした場合に、関税の引き上げや輸入制限などの通商制限を実施することを想定しています。EUやブラジルはすでに同様の制度を設けています。
ミソは、発動すること以上に、制度として用意しておくことにあります。対抗措置があることで、紛争になっている国を協議のテーブルに戻らせることが狙いなのです。
WTOは貴重な「基本インフラ」 米国をつなぎとめて機能維持を
――― WTOの紛争解決システムはもう機能しないのでしょうか。
6月のWTO閣僚会合宣言は、2024年までに紛争解決システムの完全な回復を目指すとしました。しかし、各国間の見解の隔たりは大きく、妥協点を見いだすのは難しそうです。
最大の問題は、WTOは発足して30年近くになりますが、グローバルサプライチェーンの発達や、中国などいわゆる国家資本主義のプレゼンス向上など、この間の世界経済の変化に対応したルールになっていないことにあります。現実は変わっているのに、そこに無理に古いルールを解釈によって当てはめようとしていることが、上級委問題の本質なのです。
――― WTOをどうしていけばよいでしょうか。
WTOは空気や水のようなもの、普段は意識しないけれど、なくなったら途端に困る基本インフラです。日米中、さらにEUをカバーする枠組みは、WTO以外にないわけで、参加する164か国・地域の全てに網がかかっている点は、とても貴重です。ルールをアップデートできれば素晴らしいことですが、できなかったとしても、WTOを壊してはいけません。
足元では、信頼のできる国同士で市場を形成するという動き、いわゆるフレンド・ショアリングが広まっています。米国が提唱するIPEF(インド太平洋経済枠組み)もその一つでしょう。IPEFは最大限推進すべきですが、それだけだと生まれるのは、結局米中デカップリング(切り離し)です。
日本は、安全保障の観点も含めて、対中依存度を下げていくことは必要ですが、サプライチェーンの再編は企業に非常にコストがかかります。日本としては、どこの国・地域も輸出先として、あるいは資源や食料の調達先としてつながっておく、しかもその関係がルールで保証されていることはとても大切なのです。
日本はよき仲介者として、EUや英国、オーストラリアなどとともに、米国を引っ張り込まなければなりません。「あなたのパートナー国にとっては、WTOが機能していくことが大事なのです」と地道に説得していくべきです。
川瀬剛志(かわせ・つよし)
専門は国際経済法。米ジョージタウン大学法科大学院客員研究員や大阪大学大学院法学研究科准教授などを経て、2007年より上智大学法学部教授。経済産業省で通商機構部参事官補佐として勤務した経験もある。現在は、産業構造審議会の特殊貿易措置小委員長、独立行政法人「経済産業研究所」のファカルティ・フェローも務める。