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兵庫・播州織ブランドの破天荒な挑戦。「イッテンモノ」を追求し、綿花栽培までも自前で貫く

tamaki niime/有限会社 玉木新雌 デザイナー・代表 玉木新雌さん

兵庫県・西脇市を中心とする地域に約200年前から伝わる播州織は、染め上った糸で柄を織る「先染織物」である。安い海外作品との競争に晒され、一時は存亡の危機に陥ったが、技術力とブランド力の強化により、自然な風合いや独特の肌触りが改めて評価され、国内外で広く支持されるようになっている。

そんな播州織に魅せられ、西脇市に自社のブランドを立ち上げ、活躍の舞台を世界へと広げているのが、「tamaki niime」のデザイナー玉木新雌さんである。

玉木さんは2004年に、自ら代表となり、ブランド運営する有限会社玉木新雌を設立。2009年には西脇市に移住。Labを建て、織機や染色設備を自社で保有し、ショールや衣料品など「イッテンモノ」の作品を送り出してきた。2021年にはグッドデザイン賞を受賞。今年(2023年)には、経済産業省「次代を担う繊維産業企業100選」に選ばれた。「自分たちが本当に良いと思えるものづくりをしたい」と語る玉木さんに、お話を伺った。

生地商社に入るも、「心から楽しめる服作りをしたい」と独立

――― 玉木さんは福井県出身で、ご両親は洋服屋を営んでいたそうですね。幼少期の印象深い思い出はありますか。

私の子どものころは、バブル崩壊前のいわゆる「いい時代」だったと思います。両親は大阪で洋服を仕入れて販売しており、小学校の夏休みにはよく買い付けに連れて行ってもらいました。田舎から出てきた私は、道頓堀に行って「うわぁ、都会ってこんな感じなんだ!」って驚きましたね。そのころから洋服が好きでしたし、アパレル業界は素敵だなと感じました。

ただ、子どもながらに思ったことは、仕入れ場に同じものがいっぱい並んでいて「この洋服はかわいいけれど、たくさんの人が着ることになるんだ」と少しがっかりしたんです。何百枚と作られる大量生産を目の当たりにして、「私はそうじゃないものを着たい」と思ったことが、今の原点になっていると思います。

「新しい女性像を提案したい」という気持ちを込めて、この名前を名乗るようになった玉木新雌さん。

――― 大学で衣服を学ばれた後、服飾専門学校に入られたのは、将来を考えての選択だったのでしょうか。

高校3年生で進路を考えたとき、「服を作りたいから、まずは専門学校に行こう」と思いました。ただ、両親に「これからの時代、大学は出たほうがいい」と説得され、武庫川女子大学の生活環境学科に入りました。衣服の座学を学んで勉強にはなったのですが、やはり服を作りたい気持ちが抑えられず、大学卒業後にファッション専門学校「ESMOD JAPON(エスモード ジャポン)」に入学しました。大学の教授から「いずれブランドを立ち上げたいなら、この学校がいい」とアドバイスをいただいたことが決め手でした。

専門学校時代、ファッションの勉強をするためにフランスへ行く機会があり、そこで国の違いを感じる出来事がありました。小さな子どもがスリをしている現場を見てしまったんです。それが日常に起こっていることだと知って、日本の治安の良さを痛感しましたね。その経験から「改めて日本人を好きになり、日本のモノづくりを大切にしよう」と思うようになりました。

取材当日は、玉木さんの理念に共感した全国の仲間が集まる「niime博」が開かれ、大勢のファンでにぎわった

――― その後、パタンナーとして生地を扱う商社に就職され、業界に疑問を感じたことがあったそうですね。

今思えば若気の至りだったなと思うんですが、「好きな服が作れる!」と意気揚々と社会に出てみたら、想像以上にルールや制限があるように感じました。「トレンドカラーだからこの色で新作をつくろう」、「ハイブランドはこうだから、こうしましょう」という話を聞いて、「それでいいの?」ってモヤモヤしてしまいました。もちろんビジネスなので、売るためには必要なことだったと思います。ただ、もし自分がするのなら「流行を追うことなく、イッテンモノを極めたい」と思ったんです。会社を辞め、2004年にブランド「tamaki niime」を立ち上げたのは、「心から楽しいと思える服作りがしたい」という気持ちが募ったからでした。自分がやりたいこと、そして自分がされたら嬉しいことを貫こうと独立を決めました。

イッテンモノものの生地を使った、Aラインのシルエットが特長のtamaki niimeのコート

職人とともに理想の布を追い求めて完成した「ふわふわショール」

――― 2009年に兵庫県西脇市に移住し、Labと直営店をオープンされました。その経緯はどういったものでしたか?

私自身が着心地のよい服が好きなので、独立後は素材探しに力を入れていました。ある展示会に足を運んだ時、西脇市の播州織職人の方に出会ったんです。その職人さんは「イッテンモノの布」というようなキャッチコピーでブースを出されていました。そのフレーズに引かれて、話を聞きに行ったんです。その布は、確かにイッテンモノだったのですが、 私には他の布との違いがよくわからなかった(笑)。それで職人さんに「もっと極端に表現してくれなくちゃ」と冗談交じりにお伝えして……。すると数日後、職人さんから「あなたがイメージするものを作ってみたから、見に来ませんか?」と連絡が来たんです。「頼んでいないのに、作ってくれるなんて!」とびっくりしました。

さっそく西脇市の職人さんの元を訪れ、生地を拝見して、さらに驚きました。私が話した「イッテンモノとしての違い」が表現されていたんです。イメージ通りの生地を作ることができると知って、播州織に大きな可能性を感じました。それ以降、播州織職人さんと生地を探求するようになり、心地よくて見た目も可愛い、イッテンモノの生地を作るようになったんです。

Labにはヴィンテージの織機から最新式の編機まで並んでいた。

西脇市に移住を決めたのは、理想の生地を追求するためでした。ある日、 職人さんから「注文の生地を今から織ります」と連絡をいただいて、「確認しに行くので少し待ってください」と言って現場に駆けつけたんです。直してほしくても織られてしまえば「時すでに遅し」ですからね。その場で生地を見て「もう少し柔らかくなりませんか」などと相談し、織っていただきました。すると、今まで以上に良いものが完成して……。それがきっかけで移住を決めたんです。現場の近くにいるかどうかで、生まれてくるものが全然違う。もっと早く来ていたらよかったなと思いましたね。職人さんが私のざっくりとしたイメージを真摯に汲み取ってくださったこともありがたかったです。

――― 「tamaki niime」の代表作としてショールが挙げられます。こちらが生まれたきっかけは?

播州織はシャツが主流なので、最初はシャツだけを作っていました。着心地を追求するため、職人さんに「さらに柔らかく」とお願いしたら、ガーゼかと思うほどふわふわの生地ができました。ただ、とても肌ざわりがいいけれど、シャツにしたら縫い目から裂けてしまう。「こんなに気持ちいいのに、なんとかできないかな」と考えていたところ、ふと首に巻いたら「これだ!」とひらめきました。「さまざまな色のイッテンモノの巻き物なら、シャツよりニーズがある!」と、ショールに舵を切ったのです。

その後、職人さんのそばで見ていたから「自分でもやってみたい」と興味が湧き、織機を導入し、自らの手で織る決断をしました。あれこれと口を出すのと、実際にやってみるのでは雲泥の差でしたね。織機と向き合う中で、柔らかく織ることにこだわるなら古い機械を使った方がいいと知り、1960年代のシャットル織機も播州織の職人さんから譲り受けました。実際に古い機械で織ってみると、生地に凹凸感が増したんです。不思議ですよね。昔は紙みたいにツルっとした生地が人気で、より効率的にスピーディに織ることができる機械が好まれ、今はむしろ凹凸がある方がいい。ただ、それを表現できる織機が少なくなっています。古い織り機を風化させないことも必要だと感じました。

やさしい肌触りで“イッテンモノ”のショールや小物の数々

素材へのこだわりが高じ、綿花栽培を開墾から始める

――― 2021年にグッドデザイン賞を受賞され、「ものづくりが循環する仕組みを作り、新たな雇用の創出と産地の問題解決に取り組んだ」と評価されました。

賞をいただけるのは、ありがたいことですね。きっかけは、衣服の原料となるコットンの栽培に着手したことからでした。コットン畑をLabの近くに設け、現在は栽培プロジェクトチームを立ち上げて取り組んでいます。最初は私1人で、地元の方から小さな土地を借りて挑戦しました。今まで農業をしたことがなかったので、見様見まねで鍬を持って、草刈りと開墾して、種を撒いて……。昔の人は大変だったろうなって思いましたね(笑)。

畑で採れたコットン。

仕事の合間に1年間ほどコットンの栽培をしてみた結果、素材に対する興味や知識がぐんと上がりました。どう育てれば柔らかい綿になるのかを経験から理解でき、「これはスタッフにも知ってもらいたいし、事業としてするべきだな」と感じました。素材からこだわったものづくりができたら一番だと思います。

今は畑で採れたコットンの原料になる綿花を糸にするべく、量を貯めているところです。糸をつむぐため、自社の紡績工場の準備も進めています。自分たちの手で育てた綿をこだわった糸にするためには、紡績の工程も自分たちで行うことが必要不可欠と考えたからです。

――― 栽培から糸づくり、染めや作品づくりまで行うブランドは、唯一無二かもしれません。

一貫して行うビジョンを持つ会社は世界でも少ないと思います。海外の素材を購入した方が安価ですからね。国産ですべて作ることは、あまりにも無謀かもしれません。ただ、誰もしないからこそ、続けていくべきだとも思います。播州織も含め、日本のものづくりは効率化を求めて分業化されていますが、すべての工程を体験することで「こうやって作られるんだ」という発見が生まれ、日常の中にあるものをぐっと身近に感じられます。お客様にもその思いを感じていただけるよう、原料から作るすべての工程を伝えていきたいと思います。

原料を伝える取り組みとして、羊やヤギ、アルパカなどが飼育されている。

近隣の農家から、栽培した綿花を買い取る制度も始めました。コットンは栽培時期が比較的自由ですし、なにより育てやすいんです。国産の綿花が少しでも増えてほしいという思いや、少しでも収入源に力になりたいと考えて取り組んでいます。

―――今年は経済産業省から「次代を担う繊維産業企業100選」に選ばれました。周囲の方々と連携しながら可能性を広げていく、玉木さんの「巻き込み力」の秘訣を教えていただけますか。

ブランド立ち上げたときは「こだわったものを作りたい」という気持ちが強く、人を巻き込むことなんて、できていなかったと思います。ですが、こうして染めやサイジング、糸づくり、織ること。一つ一つの工程にたくさんの方が携わっていて、皆さんと手を組まないことにはよいものづくりができないと、身を持って知りました。

周囲を巻き込むというより、私たちを面白がってくれるような方々を探すことに注力していたと思います。一緒に取り組んでくださる皆さんは、「繊維産地をともに残そう」「大変そうだけどやってみよう」と言ってくださる方ばかり。最初に私のイメージを形にしてくれた西脇市の職人さんも、「niime博」に参加していただき、今もアイデアを交換し合っています。そんな風に、ともにものづくりが続けられていることがうれしいですね。人はそれぞれ違いますから、ほしいものも、気持ちいいと思うものも異なります。だからこそ、みんなで考えながら、楽しいものを作っていきたいと思っています。

同じ色が一つとしてない、Labで作られた糸とともに。

【プロフィール】
玉木新雌(たまき にいめ)
tamaki niime/有限会社 玉木新雌代表/デザイナー

福井県勝山市生まれ。 武庫川女子大学を経て、エスモード大阪校卒業。瀧定大阪株式会社でパタンナーとして活躍。 2004年、同社を退職後、播州織に出会い、その技術の高さに魅力を感じ、兵庫県西脇市に移住。2006年有限会社玉木新雌を立ち上げ、「新たな播州織」を世界へ向けて発信し続けている。

【関連情報】
「次代を担う繊維産業企業100選」を選定しました(経済産業省プレスリリース)