政策特集君は万博を知ってるか? vol.2

時代を映す万博 国威発揚から課題解決型へ

新たな境地切り拓いた「愛・地球博」

日本人の心に深く刻まれている70年の大阪万博。画像提供=日刊工業新聞

 「万博」の正式名称は「国際博覧会」。国際博覧会条約に基づいて、博覧会国際事務局(BIE)に登録、もしくは認定されたものを示す。
 その歴史は1851年に開催された「第1回ロンドン万博」にさかのぼる。日本ではペリー来航の2年前のことである。1867年のパリ万博には日本も初参加したが、当時の政情を反映して「徳川幕府」「薩摩藩」「鍋島藩」それぞれが出展するという状況だったという。

欧州列強が開催競う

 近代化を競う欧州連強にとって、国威発揚の場である万博は一種のブームでもあり、毎年どころか1年の間に複数箇所で開催された年もあった。第一次世界大戦後の1928年には前述の国際条約が署名され、一定のルールに基づき開催される形となった。
 一方で、万博は産業の発展を促し、新たな技術や製品が生まれるきっかけとなってきた。エレベーターは1853年のニューヨーク万博、電話は1876年のフィラデルフィア万博をきっかけに誕生した。
 そして、1970年、ついに大阪万博が開催される。日本で、アジアで初めて開催されたこの万博は、日本人の記憶に深く刻まれ、高度経済成長の象徴となったことは言うまでもないが、実現に至るには曲折をたどってきた。1940年に東京で開催予定だった万博は、入場券が発売される段階まで準備が進みながら、日中戦争の泥沼化に伴って中止が決定。「幻の万博」となった。30年の時を経て開催された大阪万博では、この入場券が通用したというエピソードが残る。東京・中央区の勝鬨橋は、1940年万博のために建設された。ちなみに70年の大阪万博を契機に、ファミリーレストランや動く歩道が普及した。

グローバル化で岐路に

 時代を彩ってきた万博だが、90年代に入ると曲がり角を迎える。グローバル化やIT化の進展に伴って、各国が一堂に会する万博の存在意義そのものが問われるようになったのである。
 「もし『愛・地球博』が失敗するようなことがあれば万博は三連敗となり、存続そのものが危ぶまれてしまう。大変なプレッシャーがありました」。
 着任当時の状況をこう述懐するのは、2005年に愛知県で開催された「愛・地球博」の運営組織の事務総長を務めた中村利雄さん(現在は全国中小企業振興機関協会会長)。万博をめぐっては、1980年代後半から90年代にかけて、条約改正やルール変更をめぐるさまざまな提言が行われたにもかかわらず、「(巨額赤字を残した2000年の)ドイツ・ハノーバー万博の失敗、(04年開催予定だった)フランス・サンドニ万博の中止により、深刻な事態を迎えていたのです」(中村氏)。

事務総長として「愛・地球博」を取り仕切った中村氏


 岐路に立たされる中で開催された「愛・地球博」。「地球規模の課題に貢献する」というテーマ重視の21世紀型万博として、いかに成功に導くか。関係者は時に困難な判断を迫られた。
「『愛・地球博』のテーマは『自然の叡智』でしたが、私はこれを『自然の摂理や仕組みを謙虚に学び、持続可能な社会を創り上げる』ことと受け止めました。だからこそ、来場者にはこれを全身で体感してもらい、一人一人が具体的な行動を起こすきっかけになるような万博にしたいと考えたのです」(同)。

21世紀型万博の先駆けとなった2005年の「愛・地球博」


 抽象的な理念や方向性や示すにとどまらず、テーマをより具体的に追求、表現するプロジェクトをどう運営するか。「会場建設から展示、イベントなどあらゆる面で、これまでなかった取り組みに挑んだ結果が万博の『再出発』につながりました」。
 新時代を切り拓く新たな万博の姿。その裏にはどんな工夫や苦労があったのか。そして、実際に足を運んで初めて分かる万博の魅力にとりつかれ、世界中に足を運び続けるファンがいる。

 次回は「愛・地球博」の開催秘話と万博に魅せられた人の姿を紹介します。