政策特集健康大国ニッポン vol.3

中小企業の健康経営 その要諦とは

経営改革のひとつ まずは土壌づくりから

健康問題によって先進国では7%前後のGDPが失われているとのデータも(写真は日刊工業新聞社提供)

 健康経営は、経営資源に余裕のある大企業だけの取り組みではない。人手不足が深刻化し、生産性向上が喫緊の課題である中小企業にとってこそ、従業員が心身ともに健康で活躍できる環境整備は大きな意味を持つ。

損失額1億円規模の衝撃

 「健康リスクの高い人と低い人の労働生産性損失額の差は、年間100万円以上、従業員数百人の中小企業なら1億円規模の損失になる」。こんな衝撃のデータが最近、明らかになった。東京大学政策ビジョン研究センターデータヘルス研究ユニットによる研究成果からは、企業が抱える労働生産性の損失と健康リスクの関係が浮かび上がる。
 日本の雇用者の9割を占める中小企業の取り組み機運を醸成しようと、政府や自治体、経済界はさまざまな施策を講じている。
 経済団体や医療団体などによって組織される日本健康会議は、健康保険組合など保険者と連携して健康経営に取り組む企業を500社以上、協会けんぽなど保険者のサポートを得て健康宣言などに取り組む企業を3万社以上の目標を掲げ、健康経営の普及・啓発に向けた活動を進めている。
 2016年度にスタートした「健康経営優良法人認定制度」は、健康経営を実践する優良な大企業や中小企業などの法人を顕彰するもので、3回目となる「健康経営優良法人2019」では、大規模法人部門に820法人、中小規模法人部門に2503法人が認定されている。
 こうした「お墨付き」を受けた優良法人に対しては金融機関や保険会社が融資や保険料で優遇措置を講じたり、自治体が競争入札で優遇するといった事例も相次ぐ。経済産業省と東京商工会議所では、健康経営の必要性を伝え、実施へのきっかけを作る人材を育成するための研修プログラムとして「健康経営アドバイザー制度」も創設。これまでに延べ2万人以上が受講している。

認知度向上の一方で

 中小企業の健康経営に対する認知度は高まりつつある一方、何から手を付けたらよいか悩む経営者が少なくないのもまた事実。また、従業員の生活改善指導を行ったり、運動の機会を提供するといった取り組みに着手するものの、経営改革との接点を見いだせなかったり、他社の成功事例をそのまま導入しても、効果につながらないケースもある。
 こうした中、多くの中小企業にとって参考になりそうな企業がある。東京に本社を構える広告製版業の老舗、浅野製版所。従業員45人ほどの同社は、取り組み開始から4年あまりで、従業員1人当たりの残業時間は3分の2まで削減。他方、2017年は増収を確保。因果関係を把握しづらい人への投資効果だが、同社が2016年から労働者健康安全機構労働安全衛生総合研究所と共同で実施した調査では、従業員の「睡眠の質」、「(勤務時間外における仕事との)心理的距離」のいずれも改善効果が確認されている。一体、どんな策を講じたのか。

「健康が最終目的ではない」

 「社員を健康にすることが最終目的ではありません」。産業カウンセラーの資格を持ち、一連の改革を主導した経営企画部主任の新佐絵吏さんからは意外な言葉が飛び出した。健康経営を特別なものではなく、生産性と売り上げを伸ばし事業を継続していくための組織改革のひとつにすぎないと受け止めているのだ。

健康経営に向けた取り組みの軌跡を語る浅野製版所の新佐絵吏さん


 実際、同社が後に健康経営につながる改革に踏み出したのは7年前。過重労働の慢性化に高止まりする離職率といった業界体質に加え、デジタル化・ペーパレス化に伴う業績悪化が追い打ちをかけ、社内は疲弊していた。こうした状況を打開しようと、年間休日の増加や有給休暇の取得促進、残業時間の徹底管理といった施策を進めるも、一向に成果は上がらず、むしろ組織の歪みが顕在化するばかり。試行錯誤の結果、たどり着いたのは「どう働きたいかは人それぞれ。これを実現するため、多様なキャリアを選択できる制度の導入と業務分配の適正化を進める」(新佐さん)ことだった。
 一連の取り組みは一見すると健康経営とは無縁にみえる。しかし、中小企業診断士で、健康経営アドバイザーでもある檜山敦子さんは、「働き方改革視点の施策を同時並行で走らせ、会社は本気で変わろうとしていると社員が理解し、働き方が変容し始めたタイミングで間髪入れず、(健康増進や新入社員の心のケアなど)社員の健康状態に切り込む手順を踏んだことがポイント」と分析する。

多様なアプローチの可能性

 健康経営は、とかく、従業員の健康増進や定期健診のスコア改善といった取り組みばかりに目を奪われがちだ。しかし、企業競争力を高めるための組織改革の施策のひとつと捉えるならば、業界構造や市場特性など自社を取り巻く実情に合わせ、それぞれのアプローチで取り組めるー。同社の取り組みはその可能性を示唆している。
 ちなみに、浅野製版所では、健康経営を推進する中小企業診断士らのアドバイスをもとにビルの1フロアを改修中。さらに今後は最新の姿勢解析技術によるセルフコンディショニングツールを導入し、開発企業とともに効果検証や普及に向けた実証実験に取り組む計画だ。
 従業員にとって新たなリフレッシュの場となるスペースを前に、新佐さんはこう語る。「表面的な施策を講じても、乾いた土にタネをまくようなもの。中小企業はまずは、健康経営を推進できる土壌づくりから始めることが肝要ではないでしょうか」。