ビジョンドリブンのチームワークで、「日本の工芸を元気にする!」
中川政七商店社長・千石あやさん
丁寧で緻密な手作業、生活に根ざした多彩な地域性、そしてぬくもりを感じさせる意匠……。日本の工芸が今、国内外から注目を集めている。その魅力を発信する重要な源の一つが、中川政七商店(本社・奈良市)と言ってもいいだろう。「日本の工芸を元気にする!」とビジョンを掲げ、工芸を中心としたSPA(製造小売業)を手がけて全国に60以上の店舗を展開。さらに産地の支援事業として、工芸メーカーへの経営コンサルタントや合同展示会などにも力を入れる。そうした取り組みが成果を上げ、売上高86億8000万円(2024年2月期)を誇り、従業員も600人近くに増えた。その先頭に立つのが2018年に14代目の社長に就任した千石あやさん(48)だ。創業家以外から初の社長で、「想定外」と本人は笑うが、ビジョンドリブンのチームワークによる「千石流」の経営が社内にすっかり浸透した様子。さて、これから会社はどこへ向かうのか? そして日本の工芸の未来とは? 日本のソフトパワーにもつながるものづくりの行方を千石さんに聞いた。
――「中川政七商店」というと、工芸を中心とした生活雑貨を扱う小売店という印象がありますが、創業は江戸時代まで遡ることができますね。
麻を使った奈良晒(ならざらし)の商いを1716年に始めたのが原点。武士の裃や僧侶の法衣の生地などとして使われていましたが、近代に入って、綿や化学繊維が服地の主流となり、産業が徐々に衰退していきました。茶道具業界に参画したり、活路を模索する中で、1983年11月に「株式会社中川政七商店」を設立。85年に「遊 中川」と名付けた麻小物を扱う小売店を始め、これが現在の生活雑貨事業につながっていきます。
2000年代に入って、当時社長だった中川淳会長が直営店の出店を加速させ、SPAの業態を確立させました。2016年には創業300年の周年事業として、日本各地の工芸と人が出会い、その土地の魅力を再発見する場として「大日本市博覧会」を全国各地で開催しました。19年に中川政七商店で最大となる旗艦店を東京の渋谷スクランブルスクエア内に開き、21年には奈良市の創業地に「鹿猿狐ビルヂング」という初の複合商業施設をオープンしました。
長いスパンで大切にされる仕事に関わりたい
――大学ではグラフィックデザインを学び、仕事もデザイン関連でした。それが、どのような経緯で中川政七商店に入社したのですか。
大阪の印刷会社でデザイナーと制作ディレクターをしていて、工芸とは無縁の生活でした。12年続けて、仕事そのものはとても面白かったのですが、商業デザインの場合、サイクルが短いのが気になっていました。これから10年、20年先を見越して働くのは難しいかなと思い、転職を考えるようになりました。自分の関わったモノやコトがもう少し長いスパンで大切にされる仕事に関わってみたいと思いました。 ただ、デザインの仕事が嫌で辞めたかったわけではないので、「ここで働きたい」と思うところがあれば転職しようという感じでゆるく構えていました。
そんな時に、仕事紹介のウェブサイトで、生産管理の人材募集を兼ねて中川政七商店を紹介した記事をたまたま目にしました。そこで、「作部(つくりべ)さん」と社内で呼んでいる内職の人たちについて触れていました。作部さんたちは今も多くの商品を手掛けてくださっているのですが、ものすごくプロ意識が高くて、うまくいかない作業工程があると、「もっとこうしたらいいのでは?」と共に創意工夫をしているという話が紹介されていて、「これっていいな」と思いました。それで企業研究をして応募したんです。面接で当時のホームページのデザインについての意見として、商品の洗練された雰囲気と乖離しているように思うと社長に話すと、「もうすぐ改修するから」と言われて、翌月に本当にリニューアルされていて、風通しのよさに驚いたことを覚えています。
意思決定のスピードの速さに最初は戸惑う
――実際に入社してからの雰囲気は。
入社は2011年。「何か老舗ベンチャーやな」というのが第一印象。意思決定のスピードがとても速い。会議を何度も開いて決めるというのではなく、課題があれば、何人かブレーンがサッと集まって、提案に対してメリットとデメリットを思いつくだけ言い合い、それを中川が引き取る形で「じゃあ、こうしよう」「じゃあ、もうやめよう」とその場で判断していく。入社直前の2010年に京都のラクエ四条烏丸に中川政七商店の1号店がオープンして、それからこれまでに店舗数が50店以上になるまでの十数年を、そんな雰囲気の中で過ごしてきた感じです。
――社長にはなると思っていましたか。
全く、1ミリも(ありません)。社長を打診されて、「それは絶対違うと思う」と正直に伝えました。どうしてかと言うと、中川はやはりトップダウンの経営者で、それに対するリスペクトが私にあったし、私は中川とは違う種類の人間で、あなたのようなことは到底できませんと話して断ったのですが、「自分のコピーは要らない」と言われて……。中川曰く、会社が今以上に成長していくためには、ミドルマネジメント層が自分たちで将来像を描いて、現実とのギャップを埋めて、事業を推進していかなくてはならない。そこに自分がいて、色々口出ししてしまうと、トップダウンの体制から変革できない。だから、まず自分が社長を退こうと最初に考えたようです。
社長就任当初はものすごく混乱しました。やはり、中川のやり方に慣れていましたから。どうしても指示待ちになってしまう。ところがたまたま、コロナウイルスの感染拡大の影響で、経営速度がスローダウンして、スタッフたちとコミュニケーションを取ったり、経営についてじっくりと考えたりする時間が増えました。店舗も閉めましたし、本当に苦しかったのですが、休業中も社員の給与は100%維持することにしました。例えば、我が社の販売スタッフは商品を届けるために、工芸に対する知識も求められます。そうした人材を育てるためには時間もかかるし、何より、会社のビジョンに共感して愛を持って働いてくれる人が多かったので、この人たちが解散してしまうと、会社としても大変な資産を失うと思っての決断でした。実際、コロナが明けて、店を再開するときにスタッフのモチベーションがとても高かった。休業期間中にも仕事に関連する知識を貪欲に吸収してくれていたのです。
社長に仕えるのでなく、ビジョンに仕える
――女性活躍が求められる時代、女性経営者としての想いはありますか。
その質問もたくさんいただくのですが、実は「女性」ということで苦労したことがなくて、どうお答えしたらいいのか悩ましいのが実情です。弊社は元々、女性スタッフが8割を占め、店舗になると9割近くになります。私が入社した時も、幹部の半分以上が女性でした。その点で、「女性だから」という思いをしたことが全くなく、恵まれた環境だったのかもしれません。 やはり、私たちは「日本の工芸を元気にする!」というビジョンの下に集まっているので、社長に仕えるのではなく、やはりビジョンに仕えることが重要。そこでは性差も関係ありません。むしろ、目の前の仕事とビジョンがどうつながっているのかを考えることが大切。「政七祭り」という社内イベントがあるのですが、これは、毎年8月、全社員が一堂に集まって、ビジョンや仕事、会社の方向性についてアウトプットするワークショップのようなもので、今年は300人近くが参加しました。企業として、売り上げが前年度を超えて成長を続けることは重要な目標ですが、では、お客様に商品を届けることが、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンとどうつながっているか、お互いの意思確認の場となります。
――今後、海外展開は考えていますか。
中長期的に見て、人口減によって、日本市場がシュリンクするのは避けられないことなので、海外を含め、新しい市場開拓の必要性は感じています。現在は、日本と生活習慣の近い台湾や中国、韓国あたりでポップアップストアなど展開しており、今後も一層加速していきたいと考えています。
日本の工芸にはとてつもない可能性が残っている
――日本で人口減少に歯止めがかからないということは、工芸という産業にとっても、後継者育成も含めてピンチではありませんか。
実際、危機感を抱いています。工芸の産地の多くが分業制で成り立っていて、その歯車のどこかがかけてしまうと生産が成り立たなくなってしまう。それでなくても作り手の方が高齢化や経営難などの理由でどんどん辞めていっているというのが現状です。そのためには産地として垂直統合を進めていかなくてはならないのではないかと思っています。 私たちのお店は生活雑貨として、多くの方に商品を手に取ってもらい工芸の魅力を知ってもらう場所だと思っているので、産地にもある程度まとまった量の商品を作ってもらわなければ、商いが成り立ちません。
ところが、現地で職人を養成しようとすると、作家の養成になりがち。工芸は分業制なので、産地で求められているのはものづくり全体をカバーすること。そういった職人さんたちに注文を続けることでものづくりを止めず、それを責任を持ってお客様に届けていくことが結果として工芸を残していくことにもつながるのではないかと思っています。
日本の工芸にはとてつもない可能性も残っています。小さな国土に300もの産地があるとされ、ぎりぎり手仕事でのものづくりが残っている。これが特に欧米だと、ちょっと細かい手業の効いたものをある程度の量作るとなると、もう対応できないというのが現状になりつつあるようです。それが日本ではまだできる。そのこと自体が日本の魅力というか、ソフトパワーにもつながるのではないでしょうか。私たちも「日本の工芸を元気にする!」ことを通じて、その後押しを続けていきたいと思っています。
千石 あや(せんごく・あや)
中川政七商店社長。1976年、香川県生まれ。大阪芸術大学卒業後、99年に大日本印刷入社。2011年、中川政七商店入社。ブランドマネージャーなどを経て、18年に創業家以外から初めてとなる社長に就任。趣味はベランダでのガーデニングと4歳になる柴犬との散歩。夫と二人暮らし。