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「本業」なんて関係ない! マーケティング、声楽、教育… どれも究める人生デザイン

フェリス女学院大学副学長・オペラ歌手 武井涼子さん

フェリス女学院大学副学長の武井涼子さんにはさまざまな「顔」がある。副学長として大学の事業推進を担当すると同時に、音楽学部教授として学生たちにアートマネジメントと声楽を教えソプラノ歌手としても自ら舞台に立つ。さらには、若手音楽家育成プログラムの運営、国内オペラ公演のプロデュースなどの活動を行っているほか、マーケティングや経営戦略の専門家として企業の社外取締役や顧問、研修講師なども務めている。まさに八面六臂の活躍ぶりだが、本人は「自分に正直に行動してきただけ。考えるだけでなく実際に行動を起こすと、開くドアは増えていくのです」とさらりと言う。本業や副業といった概念を一蹴し、「音楽を通して日本の文化を世界に残したい」と自分の信じる道を突き進む武井さんに、人生観や自らの活動などについて話を聞いた。 

 

――― マーケティングや経営に携わる一方で、声楽の世界でも活動を続けていますね。音楽は長く親しまれてきたのですか?

小学生のころからピアノやバイオリンに接し、中学生のころはトロンボーンを少し勉強しました。でも本格的に声楽をやりたい、と思ったのは、高校の部活動で音楽部に入ってからです。音楽部では毎年、学園祭でオペラを上演していました。そこで舞台で演じながら歌うことのすばらしさに出合ってしまいました。

いざ、進学するにあたり、東京大学に行くのか音楽大学を目指すのか、迷いました。将来の選択肢の広さを考えると一般的な学問を学びたかったけれど、気持ちとしては歌を突き詰めたいという思いもありました。歌の先生に相談すると、「音楽の勉強は音大に行かなくてもできる」と言われ、東大進学を決意しました。

――― マーケティングとの出合いを教えてください。

大学卒業後、大手広告代理店の電通に入社し、そこでマーケティング局に配属されて初めて出合いました。最初は、自動車会社を担当しました。続けていた声楽では20代後半にはコンクールにも出場していました。どれも小さな大会でしたが、出場すれば賞をいただけました。

――― 声楽はすでに趣味の領域ではなくなっていたのですね。

いいえ、まだ若かったですし、その当時は歌手としての自覚もありませんでした。コンクールも技術や音楽表現というより私の若さと声を評価してくださっていたのだと思います。もともと私は、可能な限り将来の選択肢は広く持っていたかった。ですから歌も趣味とは考えていませんでした。

人生は行動の連続で成立するわけですから、自分で納得できる行動で24時間を構成し続けることをいつも意識しています。今、これをやりたい、そしてそれは私の人生を充実させるものだ、と思う行動を連続していくと、自分がやりたいことで出来ることの選択肢が増えます。その中から納得できる行動を選んでいくことが、最終的に自分の生きたいような人生を生きることにつながると思うからです。

具体的にはいつも「好きなこと」「得意なこと」「儲かること」のどれかに当てはまる行動をバランス良く行うことを意識しています。だいたいどの行動も、このうちの一つか二つに当てはまるものが多い。三つすべてを満たす行動は理想的ですが、一生それだけをやる状態は続けることはできないと思っています。

2024年1月、木下牧子氏作曲のオペラ「不思議の国のアリス」第2幕より。女王役を演じる武井さん ⓒ長澤直子

例えば野球のメジャーリーグで活躍している大谷翔平さんは、現時点ではもしかすると「好き」「得意」「儲かる」の三つすべてがかなえられる行動をしているかもしれません。しかし、プロになるまでは野球で「儲け」ていたわけではないし、いつかはプロ野球の世界から引退することになるでしょう。このように、三つが重なる行動を一生続けることは不可能ではないでしょうか。

私にとっては、「好き」で「得意」だけれど儲からない歌と、「得意」で「儲かる」マーケティングから社会人人生が始まりました。

――― マーケティングについては、その後どんな経験をしましたか?

電通を退社して外資系の代理店に転職しました。デジタル・マーケティング部門やwebサイトのプロデューサーも務めました。2002FIFAワールドカップの際にはFIFAマーケティングという組織で働き、そこでスポーツ・マーケティングを身につけました。

さまざまな仕事を行ううちにマーケティングの知識が増えて経営に興味を持つようになりました。そこで、アメリカに留学してMBA(経営学修士)を取得しようと考えたのです。コロンビア大学経営大学院に留学しましたが、音楽の道もあきらめたわけではありません。ジュリアード音楽院の社会人向け講座を受講したことをきっかけに、最終的にはジュリアード音楽院修士課程のクラスに1年間、参加することになりました。できることを探して行動していれば、開くドアは必ずそこにあるのです。

「世界的に評価される優秀な声楽家を育成し、日本の歌曲を広く世界に伝えたい」と語る武井さん

――― 帰国されてからはどんな活動をしていましたか?

アメリカから帰国すると、日本は経済が停滞し、すっかり勢いのない社会になっていました。経営や組織の中で使う言語としては、ストレートに議論できる英語の方が便利です。今後人口も減っていきますし、このままでは日本や日本語は世界的な地位をどんどん落とすことになると思いました。

ただ、よく考えると日本は、世界的にも珍しい文化を持っています。例えば西洋音楽では、十二音階が考案されて以降、調性のある音楽は「古いスタイル」と言われるようになりました。

でも、日本は時代ごとの様々な作曲技法が残っていて、その技法で新作が生まれることも否定しません。「上書きしない文化」なんです。たとえば雅楽には、奈良の大仏開眼の際に越(現在のベトナム付近にあった国家)から伝わったとされている曲があります。アジア各国ではこれらの曲はすでに消滅していますが、日本では上書きされずにそのままの形で残っています。今の日本が世界的に見ても安全で誰でも平和に暮らせる場所であるのはもしかするとこの「上書きしない文化」が寄与しているのではないでしょうか。

文化を支えるのに、言語が果たしている役割は大きいはずです。そこで、日本語を表舞台に残すために、できることを考えました。芸術歌曲やオペラは、原語で歌われることが一般的です。音楽の分野で、日本語の作品を後世に残すことだったら、私にも何かできるのではないか、と強く思うようになりました。

――― 日本の歌曲を残す行動としては具体的にどんなことをしましたか?

まずは自分が歌手としてある程度の発言力が必要だと思い、嵐の日も雪の日も集中的に準備をして東京二期会のオーディションを受け、留学から帰って4年後に入会しました。

2012、13年には、国連女性週間の関連事業として、日本歌曲を紹介するイベントを2年連続、ニューヨークで開催しました。海外メディアの取材を受けるなど評判を呼びましたが、限定的なイベント開催だけでは一過性のもので終わってしまいます。オペラの市場は世界に直結しており、最近は東洋人も増えています。欧米において総合芸術の最高峰とされるオペラ芸術の中に日本人が入り込み、日本から例えば3大テノールのような世界的に評価される優秀な人材を出せば、日本の歌曲を広く世界に伝えることができると思いました。

そこで10年前に始めたのが、一般社団法人奏楽会が主催するオペラ人材育成のためのヤング・アーティスト・プログラム「東京インターナショナル声楽アカデミー(TIVAA)」です。日本にいると世界の最新の潮流を取り入れるのはどうしても難しい。今、欧米で求められている歌唱を世界の一線で活躍する指導者から直接学ぶ場を作り、多国籍の歌手がいる環境で切磋琢磨して世界に羽ばたくことができる場を作って、声楽で、日本から世界に通用する人材を育成したい。そんな思いから、2週間集中的に実践的な学びを行うこのプログラムを始めました。今までにこのプログラムから多くの皆さんが巣立ち、各国でデビューしています。プログラムを経て留学する人も多いのですが、今年は、ジュリアード音楽院に推薦を受けた歌手もいましたよ。

「東京インターナショナル声楽アカデミー」でのサマーワークショップ

また、2019年に惜しくも他界された、世界的メゾ・ソプラノ歌手の重松みかさんが主催していた、イタリアのモンテフェルトロ音楽祭でのプログラムも引き継いで運営しています。イタリアで3回の公演を行うプログラムです。この音楽祭における公演開催の権利は、失ってしまうと二度と得ることはできません。なんとしてでも日本人がイタリアで公演を行う権利を引き継いでいかなくてはいけないとの思いで何とか続けております。

――― ヤンマーホールディングス株式会社の社外取締役にも就任しているほか、銀座松屋が運営する「次世代リーダー育成プログラム」ではプログラムディレクターとして、運営の中心となっていますね。日本の若手ビジネスパーソンへのアドバイスをお願いします。

残念ながら人口が減る以上は日本の市場は小さくなっていくばかりです。それに世界はデジタル化もあってどんどん狭くなっていて、スピードも速くなっています。ですからまず、視野を広くすることが大事です。決して日本国内だけで完結しようとは思わず、最初から世界を市場として行動することです。日本人はよく、『こんなことしても良いのだろうか』を立ち止まって考えて時間を無駄にしてしまいますが、無駄なことは考えず、とにかく出来ることを行動に移して、その結果から次の行動を決めてほしい。

やってはいけないけれど気が付くと陥りがちなのが、解決できない問題で悩んだり、手段が目的化してしまったりして、行動が止まってしまうことです。変えられないことや、変えられるとしても変える気のないことで悩むのは時間の無駄です。なぜならそれは問題ではなくて状況としてとらえる必要があるからです。

また、本当の目的を見失って、難しい手段の実現に奔走し、時間を無駄にしてしまうことも多くあります。行動の目的を常に意識して、枠にはまらずに、物事を多面的にとらえると、出来ることがたくさんあることが見えてきます。開かないドアをたたき続けるのはやめて、また別のドアを探せばいい。私もそうやって苦手なことをやめて、好きなこと、自分が信じることをやり続けてきました。みなさんも自分が置かれた状況をよく分析して問題をとらえなおし、目的を整理して、その目的のための行動をすることです。そうすると開くドアは自然に増えていくでしょう。

【プロフィール】
武井 涼子(たけい・りょうこ)
フェリス女学院大学教授・副学長、オペラ歌手、一般社団法人奏楽会代表理事。

東京大学文学部卒業。米コロンビア大学経営学修士(MBA)修了。昭和音楽大学音楽研究科博士後期課程修了。大学卒業後、電通に入社。外資系の広告代理店やマーケティング会社を経てコロンビア大学大学院に留学。その際にジュリアード音楽院でもSinging in Frenchクラスを受講した。帰国後、マッキンゼー、ウォルト・ディズニー・ジャパンを経てグロービス経営大学院教授としてマーケティングや経営戦略などを教える一方、東京二期会にも入会し、オペラ歌手としての活動を本格化。2023年よりフェリス女学院大学教授。ヤンマーホールディングス株式会社取締役なども務める。