【地域未来牽引企業】100年企業「きしろ」の技術
船舶から航空機部品まで 時代とともに日本のものづくり支える
兵庫県明石市に本社を置く「きしろ」は、1915年の創業から一貫してモノづくりを続けてきた。ただし100年余りの間に、ものづくりの中身は時代の変化に応じて、あるいは経営者の交代を機に変貌を遂げてきた。4代目である松本好隆社長は「自社製品を持たない会社なので、お客さまの要望に応えるために丁寧に仕事をすることだけは変えたくない」と話す。
漁業の街とともに
今も社名に名を残す創業者の木代重行氏は同志社大学神学部に学び、社会福祉事業家になるという望みを抱いていた。だが、大学卒業後に大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)で機械設計を身につけ、大阪発動機(現ダイハツ工業)でエンジン設計を行っていた。その後の経過は不明だが、木代氏が27歳の時、兵庫県明石市材木町で「きしろ発動機」を創業、小型船舶用内燃機の製造を始めたことが同社の始まりだ。
明石は「明石鯛」や「明石たこ」で知られる漁業が盛んな町。漁船需要の多さに目をつけた木代氏が漁船用エンジンで当時主流だった焼き玉エンジンの製造に乗り出した。
きしろ発動機は順調に事業を拡大し、1926年には明石市内に大工場を建設した。販売先はアジア各国に広がり、陸軍の要請により従業員250人を連れて中国・上海にも進出した。1939年の従業員数は1200人まで拡大した。しかし第二次大戦中には鐘淵工業への吸収合併を余儀なくされ、1945年には空襲で明石造機工場が全焼してしまい、同社の草創期は幕を閉じることになる。
創業者の木代氏はもともとの夢であった社会福祉事業家に転身、残された従業員らがきしろ発動機の復興に立ち上がった。製造現場の責任者だった松本金次氏(松本好隆社長の祖父)が中心となり、1947年に鐘淵工業から旧明石造機工場を買い戻し、再び船舶エンジンの製造を開始した。当初はかつて製造したエンジンを修理する仕事しかなかったが、戦後の日本復興につれてきしろ発動機の仕事は増えていった。
1955年には、その後の同社の屋台骨となる船舶部材加工の仕事を神戸製鋼所から初受注した。またフラフープブームなどで急速に普及していたプラスチック製造の仕事にも進出した。一方、小型船舶用の焼き玉エンジンは需要が減少、1959年、同社は祖業であるエンジン製造から撤退を決断した。
世界シェアのほぼ半分
船舶用エンジンの製造を止めた後も、船舶部品に対するこだわりは強く、神戸製鋼所が受注する船舶用部材の切削加工を一手に担ってきた。船舶用クランクシャフトは神戸製鋼所が世界シェアのほぼ半分を受注し、きしろがすべて加工する。1辺が3メートル以上の大型鋳鍛鋼の切削加工や全長20メートル、160トンのタイロッドも国内で唯一加工できる技術力を持つ。
大型部材を加工できる播磨工場には、戦艦大和の砲身を削り出した旋盤が今も残る。そうした古い設備を改良したり、自社で専用機を製作したり、工夫を重ねて他社にまねのできない大型品の加工法を編み出してきた。
船舶用部品以外にも、一般産業部品も製造する。風力発電用のローター軸や製鉄用バックアップロール、シールド掘進機など大型部材の加工を得意とする。1971年から2009年まで社長を務めた松本好雄氏は、スピード感のある柔軟な経営を推し進めた。2009年に社長を引き継いだ長男の好隆氏とともに、新事業分野にも進出している。2015年には航空宇宙向け部材の品質規格「JIS Q9100」認証を取得し、航空機部品事業にも進出した。播磨工場の敷地内に航空機部品加工の専用工場として播磨精機工場を設立し、最新の工作機械を導入した。チタンの切削加工によるファンケースやランディングギア部品を製造している。
太陽光発電で地域に貢献
また持続可能な新エネルギー創出のため、太陽光発電事業も拡大している。これまでに同社工場や北海道、宮城県など全国8カ所に総出力1万キロワットの発電所を設置した。
松本好雄会長は「明石」の「明」と「松本」の「松」から取った「メイショウ」の冠名で競走馬を多数保有する馬主としても知られる。経営の行き詰まった北海道の牧場からの依頼に応え、土地を買い受けて太陽光発電所を設置するなど、人と人とのつながりを重視する。
松本好隆社長は父の好雄会長を「豪快に見えて細心。人を取りまとめることにかけては天才的」と評する。一方、自身は「進化している機械、コンピューターと人の技を連動させ、少ない人数で生産性を高めていきたい」と、IoT(モノのインターネット)化などに取り組む。顧客の要望に応えるという基本姿勢は継承しながら、新たな時代に合ったモノづくりの実現に挑戦する。
【企業情報】▽所在地=兵庫県明石市天文町2-3-20▽社長=松本好隆氏▽設立=1915年▽売上高=40億円(2018年3月期)