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“世界のミクニ” 70歳から開く新たな道 「あしたのジョー」のように燃え尽きたい

フランス料理シェフ 三國清三さん

日本のフランス料理を革新し続けてきたカリスマシェフ、三國清三さん(69)が、37年続けたレストラン「オテル・ドゥ・ミクニ」の幕を下ろした。ヨーロッパで修業後、30歳で開店。人生のすべてをつぎこみ、著名人も多く訪れる有名店に育て上げたレストランを閉じたのは、「やりたかったことを最後までやり残すべきではない」という一大決心からだという。2024年秋頃には、同じ場所に、わずか8席の新しいレストランを開店する。

同時期に出版した「三流シェフ」は料理人の自伝の枠にとどまらず、人生や仕事への向き合い方の示唆に富み、幅広い読者を獲得している。これまでの成功をリセットし、70歳から切り開く新たな道への思いを聞いた。

人生100年 料理人のキャリアのモデルを作りたい

―――「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉じて、新しい小さな店を作るという決断には大変驚きました。どういう思いがあったのですか。

四谷・若葉町に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンしたのは1985年です。当時は「一億総グルメ」と言われ、お店も繁盛しました。しかし、その後のバブル崩壊で、都内の高級レストランはバタバタとつぶれました。そんな折、レストランの横の土地が空き、大家さんから「土地を借りますか」と誘われたんです。開き直って土地を借り、レストランも大きくしたんですね。すると、皆さんが応援してくれて、バブル崩壊を乗り切れたんです。借金も全部返せました。

「オテル・ドゥ・ミクニ」がオープンした1985年、お店の前で撮影

今度は東日本大震災が起きました。とても高級料理を食べる雰囲気ではなく、周りの高級店はどんどん閉まっていきました。当時、お店のランチは1万円、ディナーは3万円。そこで、料金の半分を被災地に寄付すると記者発表しました。すると昼も夜も予約で一杯、いつも満席になり、過去最高の売り上げを達成できたんです。寄付もたくさんできました。

リーマン・ショックは半年ほど我慢すればよかったですが、コロナはもう致命的で、飲食の業界に15歳で入って、初めての長く苦しい体験でした。それから、スーパーの食材を使ったレシピを紹介するユーチューブの動画をほぼ毎日公開するようになりました。チャンネル登録者数はもうじき50万人に達します。そうやってこれまでの料理人としての人生を乗り越えてきました。

僕自身もそろそろ70歳を迎える時期になりました。人生には、良いときの「上り坂」、ピンチの「下り坂」もある。「まさか」という坂もあります。コロナ禍が「まさか」でした。また、コロナ禍のようなことが起こりうる。地球環境や世界情勢も不安定です。

僕が料理人になっていちばん最初に描いた志は「自分一人で、お客様に一から十まで作って提供したい」ということでした。僕自身もいつ最後になるか分からない。自分がやりたいと思ったことをやり残すべきではないと決心をして、新しく、小さなレストランを始めることにしたんです。70歳で新たなスタートを切るため、逆算して37年で閉じました。人生100年時代と言われるようになり、70歳からの新たなキャリアのモデルの一つになればいい、そんな思いもあります。

―――これまでの歩みをまとめた「三流シェフ」は、何とも刺激的なタイトルですね。

北海道増毛町での貧乏な子ども時代から、37年間の「オテル・ドゥ・ミクニ」でのことまで、これまでの「うらみつらみ」(笑)も含めて本に残したいと、幻冬舎の見城徹社長に相談したんです。すると、「『三流シェフ』っていうタイトルだったら本を作ってもいいぞ」と言われました。びっくりしましたが、どうしても自分が生きてきた証しを本に残したかったので、「はい。三流シェフで結構です」とお願いしました。本はおかげさまでベストセラーになりました。“編集の天才”見城さんの「つかみ」のセンスを感じましたね。

これまでの歩みを本に残したい、と出版した「三流シェフ」(幻冬舎刊)はベストセラーに

その世界の「鍋」を探せ! そこから仕事は見つかるもの

―――本の中の「鍋」のエピソードは印象的でした。
仕事を始めた札幌グランドホテルでは、鍋洗いを経て、料理を作らせてもらえるようになりました。そんな時、「東京の帝国ホテルには村上信夫という『料理の神様』がいる」と聞き、どうしても神様に会わなければいけないと決意しました。18歳で上京し、紹介状を持って村上総料理長に会いに行きました。すると「すぐに社員にはできない。パートで調理場の洗い場で働きながら順番を待っていれば社員になれる可能性がある」と言われました。

次の日から鍋洗いに逆戻り。3年間たっても、鍋洗いのままでした。「どんなに頑張ってもかなわないことはあるんだ。ダメなものはダメなんだ」と悟り、増毛に帰ると決めたんです。初めての挫折でした。でも、そこが僕の人生の分岐点だった。挫折して「クソっ」と思ったんですね。親方に「ホテルにある18のレストランの鍋を全部、毎日洗います」と宣言しました。

全レストランの鍋洗いを続けて3か月たった頃、村上総料理長に呼ばれました。「年が明けたらすぐスイス・ジュネーブに行きなさい。君を大使の料理人に推薦しました」と言われ、本当に驚きました。後で知りましたが、村上さんも貧しい家庭で育ち、3年間、帝国ホテルで鍋洗いをしたそうです。「10年はヨーロッパで勉強しなさい。10年後には必ず君たちの時代が来るから」と送り出してくれました。

―――鍋の話には続きがありますね。

スイスで大使館の料理人をしながら、「厨房のモーツァルト」と呼ばれたフレディ・ジラルデさんの元で学びたいと思い、レストランを訪れました。メニューはなく、「スポンタネ(即興料理)」で勝負している店でした。彼はいつも怒っている人で、まあ、門前払いされるわけです。夜まで粘って待っていると、厨房の洗い場にポーンと放り込まれました。一生懸命鍋洗いをしていると、「お前はどうしたいんだ」と聞いてきたので「大使館が休みの日曜日だけ働きたい」と答えると、「勝手にしろ」と。それから4年、いろいろな仕事をさせてもらえました。その頃からジラルデさんは世界中から注目されていて、「20世紀における最高のフランス料理人」になった。僕に料理人としての自信を与えてくれた人です。

訪欧中の20歳代、フランス料理の心を教えてくれたフレディ・ジラルデ氏(中央)と三國さん(右)

―――本の中で「もしもなにかやりたいことがあって、どうしてもそれができなかったら、その世界の鍋を探してみることだ。なんの保証もできないけど、もしかしたらなにかのとっかかりは掴(つか)めるかもしれない」と述べておられます。この「鍋」にはどういう意味を込めていますか。

料理人にとって鍋洗いは一つの雑用、下積みの仕事ですから、先輩たちはやらない。だから、たまっている鍋を率先して洗うことは誰からも歓迎される。どんな仕事でも歓迎される方がいいじゃないですか。新人が「何かを包丁で切らせてくれ」と言ってもやらせてはくれません。鍋洗いをちゃんとやっていれば、「これをやってみろ」とか「ソースをなめておけ」とか、仕事をもらえるようになる。自分の仕事はそうやって見つけていくものです。

僕は一生懸命やるじゃないですか。例えばゴミ掃除でも、与えられたことを。僕は鍋洗いでしたけど、やっぱり一生懸命やるってことですよね。一生懸命やる人を、周りの人は助けるというか、手を差しのべますよね。鍋は僕の幸運の女神なのです。

第2の挫折を経て「僕にしか作れないフランス料理を作る」

―――「料理界のダ・ヴィンチ」と呼ばれたアラン・シャペルさんは、三國さんに料理人として進む方向を教えてくれた人だったそうですね。

ジラルデさんの店で働いた後、フランスの三つ星レストランを回り、28歳で帰国するまでの1年間、シャペルさんの店で修業しました。働き始めて3か月後、シャペルさんは僕の料理を見て一言、「セ・パ・ラフィネ(洗練されていない)」と言いました。ただ、作り直されることもなく、料理はそのまま運ばれていった。「彼は何を言いたかったのか」と何か月も悩み続けました。

ある夏の暑い日、スタッフ用の「まかない」を作ると、他の料理人たちは「味が薄い」と言い出し、クリームをどんどんかけていった。そのとき、はっと気づいたんです。「僕はフランス人じゃない。フランス人のようにフランス料理を作ることはやめる。僕にしか作れないフランス料理を作る」。それで帰国することを決めました。人生2度目の挫折でした。

僕は日本人なので、豆腐、みそ、米、しょうゆ、天ぷら、かば焼き、茶わん蒸しとかは大好きです。「オテル・ドゥ・ミクニ」ではそれらをフランス料理に取り入れて表現しました。でも、日本の料理評論家、先輩料理人からのバッシングはとても厳しいものでした。

開業から5年過ぎたある日、店にシャペルさんがやってきました。料理を食べ終わると、ゲストブックに長い言葉を残してくれました。「キヨミはフレディ・ジラルデ、ジャンとピエール・トロワグロ、ポール・エーベルラン、それに私、アラン・シャペル、その他彼の師匠と呼ばれるフランス人シェフたちの料理を見事に“ジャポニゼ”してのけたのだ」と。「ジャポニゼ」は「日本化」といった意味ですが、日本人に向かって「日本化した」とは言わないですよね。僕をフランス人に見立てて、日本の食材や食文化を取り入れてフランス料理の可能性を広げたことを「ジャポニゼ」と評価してくれたと解釈しています。僕はもう60代になっていました。そのとき、自分が探してきた料理の方向性はこれで良かったんだと確信を持つことができたのです。

すべて一人で料理を提供 8席のレストランで実現したい

料理人として最後まで燃え尽きたいと話す三國さん

―――新しいお店では、どんなことをやりたいですか。

なぜ8席にするかと言うと、手の指は10本、10人のお客に応対すると「手いっぱい」になってしまう。1人の料理人が応対できるのは8人までなんです。知り合いの寿司屋さんから教わりました。

僕一人で、一から十まで作ってお客に提供する夢を実現します。メニューも値段も決めない。朝、市場から仕入れてきたいちばんの素材を見ながら、カウンターに座るお客と「グリルにするか、蒸すか」「単品か、コースか」などを相談しながら料理する。まさに「スポンタネ(即興料理)」です。残り少ない人生、80歳なのか90歳なのか100歳なのか分かりませんが、料理人として最後までやり切って燃え尽きたい。リングサイドで燃え尽きた『あしたのジョー』のようにね。

【プロフィール】
三國 清三(みくに・きよみ)
フランス料理シェフ
1954年北海道増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテル、帝国ホテルで修業し、駐スイス日本大使館ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部料理長に就任。その後いくつかの三つ星レストランで修業を重ね帰国。1985年、東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど、国際的に活躍。2013年、フランソワ・ラブレー大学より名誉博士号を授与される。2015年、日本人料理人で初めて仏レジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。2020年にYouTubeを始め、登録者約50万人の人気チャンネルに。子どもの食育活動やスローフード推進などにも尽力している。YouTube「オテル・ドゥ・ミクニ」