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【岩手発】コロナ禍の逆境で勝負。醸造復活に賭けた老舗酒蔵のベンチャー精神

岩手県一関市 世嬉の一酒造

全国には1000を超える酒蔵があり、そこで醸造される清酒の銘柄は1万を超えると言われる。岩手県一関市の老舗「世嬉(せき)の一酒造」で、2023年新たな銘柄が誕生した。「清酒 横屋」。同社が清酒を自社で醸造するのは41年ぶりだ。

100年を超える歴史の中で、一度は酒蔵を閉じ、クラフトビール製造やレストラン事業を柱に事業を展開してきた。そして、東日本大震災、コロナ禍と相次ぐ困難に直面したとき、乗り出したのが自社醸造の復活だった。

音頭を取ったのは4代目の佐藤航(わたる)社長(52)。老舗ののれんを守りながら、状況に応じて果敢に事業を転換する。老舗酒蔵のベンチャー精神に迫った。

世嬉の一酒造が41年ぶりに自社醸造した「清酒 横屋」

閑院宮が命名。水害、需要減で経営傾く

「世嬉の一酒造」は1918年(大正7)、初代・佐藤徳蔵氏が江戸時代から続く老舗「熊文酒屋」受け継ぎ、「横屋酒造」として創業した。現在の社名「世嬉の一」は、宮家の閑院宮載仁氏が立ち寄った際、「世の人々が嬉しくなる酒を造りなさい」との言葉を掛けられたことから命名された。

戦後は、映画館や自動車学校の経営も手がけ、中学生だった作家の井上ひさし氏が母親と住み込み、映画館の切符のもぎりのアルバイトをしていたという逸話もある。ただ、酒造りについては、1947、48年のカスリン、アイオン台風で大きな被害を受けたことや、その後の需要減に伴う経営難で、1982年には酒蔵を閉じ、他社に製造を委託していた。

「大きくて、真っ暗で、活気がなくて、まるで『お化け屋敷』のようでした」

佐藤社長は幼い頃の酒蔵の印象をこう語る。当時、酒造りは祖父の正氏が担い、父の晄僖氏(現会長)は自動車学校の経営に当たっていた。酒造りは売り上げも伸びず、借金もかさんでいた。

「祖父は亡くなる前に、『もう酒屋は辞めてもいい』と父に言ったそうです」

世嬉の一酒造の酒蔵群は1999年国の登録文化財に指定された

「酒蔵残したい」。祖母の反対で売却思いとどまる

時代はバブル経済。「世嬉の一酒造」の酒蔵群が立ち並ぶ土地も、ショッピングセンターやホテル用地として、引き合いが後を絶たなかった。いっそ土地を売却して地主として生きていくという選択肢もあった中で、祖母が「何とかしてこの建物を残せないか」と強く反対した。結果、当時好調だった自動車学校のほうを売却。酒造業に再投資することを選択した。

「『来月には潰れる』と、当時は言われ続けた」(佐藤社長)というが、結局はこの決断が現在につながる。空いた酒蔵をレストランや売店に改装。1995年には、街おこしの活動を進めている有志らとクラフトビールの製造に乗り出した。

ビール事業立て直しへ。経営コンサルタントから転身

そのころ、佐藤社長は大学で微生物の研究をしていたが、「研究室と世の中のズレ」を痛感。オーストラリア留学を経て、経営コンサルティング会社の船井総合研究所に入社。経営コンサルタントとして一線に立っていた。

「様々な業種のトップの方々とお会いすることができました。元気な企業が多く、何か新しいことをやりたい、チャレンジしたいという経営者が多かったので、勉強になったし刺激を受けました」

父親から会社に戻ってくるよう言われたのは1999年。滑り出し好調だったクラフトビールが不振に陥ったため、立て直して欲しいという。佐藤社長はその年の12月31日付で退社、2000年1月1日から「世嬉の一酒造」でクラフトビールづくりに取り組むこととなった。

佐藤航社長は経営コンサルタントを経て、30歳で家業の立て直しに当たることになった

日本スタイルに挑戦。米国で売り上げ伸ばす

「戻っては来たものの、当時は次々と社員が辞めていき、私が1人で製造して瓶詰めして営業するという日々が続きました。そのうち、今の工場長が入社してくれて、だんだんと状況が好転し、1、2年でなんとか立て直すことができました」

佐藤社長は商品開発と海外展開に力を入れた。「米国のスタイルでもドイツスタイルでもない、日本スタイルをつくらなければ」と、山椒でつくった「山椒エール」や陸前高田のカキを使った「オイスタースタウト」などを製造・販売。海外の品評会に積極的に出展していった。「地元の人が自慢できるものをつくって、『ニューヨークやロンドンで評判なんだよ』と、ギフトとして使ってくれることをイメージしていた」という。

この戦略があたり、品評会で次々好成績をおさめ、東日本大震災後、米国で売り上げが急上昇。その評判が日本に逆流し、国内でも売り上げを伸ばした。レストラン事業もインバウンド効果を取り込み順調に伸びていった。

日本スタイルのクラフトビールは米国など海外で売り上げを伸ばした

コロナ禍、次々と新手。事業転換図る

そんな「世嬉の一酒造」をおそったのがコロナ禍だった。しかし、佐藤社長はあわてなかった。「東日本大震災の時、一瞬にして商売ができなくなるという経験をしていたので、『今できることをやろう。この経験があって自分たちが成長できたと思えるようにしよう』と考えていました」と振り返る。

まずは、「世嬉の一酒造」とはどういう会社なのか、経営理念、経営ビジョンを見直した。「社員と原点にかえって一緒に考え、つくり直した」という。消毒液が足りないというので、消毒液の製造にも着手した。ただ、「消毒液の供給はすぐに戻るだろうから、ノウハウを今後に生かすことを最初から考えていた」という。消毒液を蒸留したノウハウは岩手県で初めてのクラフトジンに結実した。

コロナ禍で酒類提供の自粛を強いられる飲食店の相談を受けて、クラフトコーラ、クラフトノンアルコールビールの開発・製造にも乗り出した。

レストラン事業も大きく見直した。昼夜営業していたのを、昼間だけにしぼった。年中無休だったのもあらため、毎週火曜、水曜は定休日にして、従業員にとっては週休2日、午前9時から午後6時までの職場にした。

「コロナ前に比べ、売り上げは減っていますが、人件費などを差し引いた最終利益はコロナ前の水準に回復しています。生産性が格段に上がったのです。社員の不満も確実に減ったと思います。残業時間が少なくなったので、給与を上げやすくなるという効果もありました」

「もう一度ものづくりの会社」に

そして、最大の決断が清酒の自社醸造再開だった。

「ここ10年でこの地域は人口がかなり減りました。飲食サービス業で売り上げを伸ばそうと思えば、店舗をどんどん出して、席数と回転率を上げていかなければならない。従業員も大勢雇わなければならない。そうなると従業員の給与を上げるのも難しい」

もう一度、ものづくりの会社になろう。これが佐藤社長の出した結論だった。清酒の自社醸造復活は20年来構想していた。しかし、東日本大震災やインバウンドの急拡大などで、踏み切れずにいた。「コロナ禍が背中を押してくれた」と佐藤社長は強調する。

「タイミング良く経済産業省の『事業再構築補助金』ができると知って、まさに自分たちが取り組もうとしていることだと思いました。ラッキーでした」

今後は、「横屋」を地元酒店に限定して出荷。これまで委託製造していた銘柄「世嬉の一」は、自社製造に切り替え、よりハイブランドの銘柄として、海外市場も目指していくという。

酒蔵を改造した直売店には、地酒、クラフトビールはじめ様々な商品が並ぶ

「変化に対応するため事業承継重要」。各部門で“スター選手”育てたい

今後の展望について佐藤社長はどんな青写真を描いているのか。

課題としてあげたのが事業承継だ。「希望としては60歳で会長になって、若い人を育てながら65歳で身を引きたいと思っています。状況に応じて業態を変えていくといったことは、若い、柔軟な発想がないとできない。私が辞めるまでに清酒をある程度の形にしていきたい」

その上で、それぞれの部門を担うスター選手を育てたいという。

「うちのビール工場長は『岩手県青年卓越技能者』の称号を得ています。清酒、クラフトビール、クラフトジンそれぞれで、スター選手が生き生き働く職場にしたい。そうなることで、やる気のある人が集まる楽しい会社にできると思っています」

 

【企業情報】

▽公式サイト=https://sekinoichi.co.jp/▽社長=佐藤航▽社員数=20人▽創業=1918年▽設立=1957年