バイオの新常識が世界を変える。日本の活路を探る
治療法が見つからなかった難病の医薬品、動物細胞を培養して作る“肉”、CO2を原材料にしたプラスチック…。産業界からは今まさに、これまでの常識では想像できなかった製品が生まれつつある。新型コロナウイルスのワクチンも、従来では考えられないスピードで実用化した。
合言葉は「バイオテクノロジー」。古くからある技術だが、ゲノム解析やデジタル技術の発達とともに、近年めざましい進歩を遂げている。経済成長だけでなく、地球温暖化問題の解決や人々の健康にとっても、重要な役割を果たすことが確実視されている。
各国で研究が加速しているが、日本は正直、出遅れ気味である。如実に表れたのが、新型コロナウイルスのワクチン開発。米国や英国、さらにはロシアや中国にも先を越され、「ワクチン敗戦」という汚名を受けた。
「日本が遅れを取り戻すのには、もう最後の機会だ」。関係者の間からは、こんな悲鳴も聞かれる。最先端のバイオテクノロジーの産業化に向けた動きを追いながら、課題を探っていく。
初回は予備知識として、基礎的な情報や国内外の状況を紹介する。
技術革新が生む巨大市場。医療、素材、食品で急拡大
「バイオテクノロジー」とは、生物学を意味するバイオロジーと技術を意味するテクノロジーを合わせた言葉である。日本語では生物工学、生命工学などとも訳される。
人類ははるか昔から、生物の能力や性質を利用することで、日々の生活を豊かにしてきた。微生物の力を借りて酒やチーズのような発酵食品を作り、野生植物から薬を生成した。別々の品種をかけ合わせるなどして、人類にとって都合の良い生物に作りかえる「品種改良」の歴史も長い。
1970年代以降に、遺伝子組み換えや細胞融合の技術などが生まれると、発展のスピードが速まった。収穫量が多く病気に強い作物がごく当たり前に流通し、人工合成したたんぱく質でできたバイオ医薬が出現した。
さらに、ここ10年ほどで台頭した「合成生物学」が、新たな地平を開いている。生物の設計図となるDNA(デオキシリボ核酸)配列を読み解く「シーケンサー」の飛躍的な性能向上により、ヒトの遺伝情報であるヒトゲノムの解析にかかる時間やコストが大幅に低下。AI を用いたディープラーニングの発達で、ゲノム配列が示す「意味」への理解も深まった。ゲノム編集やゲノム合成に関する技術革新もあり、有用物質の生産性が大幅に向上するように設計された細胞「スマートセル」が作られるようになった。
製薬の世界でも、DNAやリボ核酸(RNA)など遺伝情報をつかさどる核酸と呼ばれる物質を利用した「核酸医薬」が登場した。新型コロナウイルスのワクチンもその一種だが、それにとどまらず、ガンを含め様々な難病の治療薬が生まれるとの期待が高まっている。
マッキンゼーによる分析では、細胞や細胞内分子、臓器を活用して物質を生成するバイオエコノミーの世界市場は、2030~2040年には200兆~400兆円に達するという。医療・ヘルスケアにとどまらず、素材やエネルギー、食品などの分野でも高い伸びが見込まれている。
新たな実用化に際しては、求められる課題は多岐にわたる。有用な細胞を一つ作るだけでは不十分である。大量に培養し、製品の形にしなければならない。大学や研究機関、化学メーカーや医薬品メーカーに加え、異業種の企業やスタートアップ企業が入り交じって、開発にしのぎを削るとともに、それぞれが得意分野を生かして協力するオープンイノベーションや水平分業が広がり始めている。
経済安全保障でも注目。バイオが「国家戦略の柱」に
バイオは、経済安全保障の観点からも注目され、各国が国家戦略の必要性を認識している。
米国では今年9月、バイデン大統領が「バイオテクノロジーとバイオものづくりの推進に関する大統領令」に署名した。バイオを利用したものづくりが今後10年以内に製造業の世界生産の3分の1を置き換えるとの見方を示しており、研究開発の支援や規制の合理化、人材育成に乗り出す。
米国内では、IT業界の実業家やベンチャーキャピタルが積極的に資金を投入していて、合成生物学ベンチャーへの民間投資額は2021年に178億ドルと前年から倍増した。こうした動きがさらに後押しされていくことになる。
一方、昨年の米国議会に提出された報告書によれば、中国政府はバイオ分野の研究開発に1000億ドル以上を投資するという。山西省には官民合わせて約1400億円をかけて一大生産拠点が建設中であるなど、国家プロジェクトが次々と進行している。
米中の対立が深まる中、国際協調も重みを増している。日米豪印による枠組み「QUAD」(クアッド)は今年9月の首脳声明で、バイオの技術動向調査を実施するとともに、今後協力する分野を特定していくことで一致した。
日本は強みを生かせる。国は1兆円規模の投資を計画
政府は6月にまとめた「新しい資本主義の実行計画」で、バイオテクノロジー・医療分野について、量子やAIなどと並べて、「我が国の国益に直結する科学技術分野である」と位置付け、新たな国家戦略を策定する方針を示した。研究開発拠点の整備はもちろん、治験環境の整備、ベンチャー企業の育成に向けた対策が取られつつある。
実は、日本にも長所はある。
生物である細胞を大量に培養するには、タンク内の温度や湿度、濃度などをきめ細かく管理することが必要になる。日本の製造業がしょうゆやみそ、酒などの生産で培ってきたノウハウをいかすことができる。
目的となる臓器や組織の細胞を作って患部に移植する「再生医療」では、山中伸弥・京都大教授がiPS細胞(人工多能性幹細胞)の開発でノーベル生理学・医学賞を受賞したことをきっかけに研究が進み、日本が先行している分野もある。今後は、遺伝子治療などと一体的に開発が進められる予定になっている。
政府はバイオに関しては、量子やAI、半導体などとともに、「国益に直結する」科学技術分野と位置づけており、この10月にまとめた総合経済対策では、バイオ医薬品やバイオものづくりの開発・実証・生産等の産業化拠点の整備やベンチャー企業支援などを盛り込むことを決めた。
経済産業省生物化学産業課の下田裕和課長は「世界の製造業がバイオプロセスに置き換わっていくのは時間の問題だ。資源小国の我が国にとって、技術的に強みがあるバイオ分野は、経済安全保障の観点からも切り札となり得る。バイオ・創薬分野の企業が国内で開発・生産し、世界のマーケットで稼ぐ仕組みを構築するため、今般の経済対策も活用して約1兆円規模で中長期的な投資を行っていく」と話している。