変わる国際秩序 キーワードは「フェア」
神奈川大学 大庭三枝教授が語る今後の通商政策
RCEPは国際経済秩序をどのように変えるのか。中国の参加やインド離脱の影響や、今後の通商政策のあり方をどう見ればよいのか。神奈川大学の大庭三枝教授が解説する。
インド、中国をどう見るか
ーRCEPが署名されました。その意義を、どのように考えればよろしいでしょうか。
「保護主義が台頭する中、東アジアではそれを放置しないという強い政治的なメッセージを示したと捉えるべきです。RCEPに署名することがメッセージを発信する機会であることを各国は意識し、インドが離脱しても合意しようという意志を感じました」
―大庭先生は中国のRCEP参加について、中国が自らを縛るルールづくりに加わった重要性を指摘されてきました。
「中国が経済秩序のルールの外にいる状態は、他の国々としては、ある意味で対応しやすい面がありました。中国がいくらグローバル化を表明しても、一定の質の経済ルールにコミットしていないので、『行動が伴っていない』と指摘できたわけです。中国のRCEPへの参加はこの状況を大きく変えます。中国は自国の経済活動にとって短期的にみれば、必ずしもプラスにならない枠組みに参加したからです。他の国にしてみれば、これは脅威にもなり得ます。中国が、国際経済秩序のルールの枠外で好き勝手にしているよりも、ルールを守りながら発展を目指す方がはるかに手強くなるはずです。各国はこうした現実を認識した上で、まずは、中国を含む全てのRCEP参加国による協定の履行・遵守を徹底させ、その上で持続可能な共通ルールの構築を目指していくべきでしょう」
ーRCEPの交渉過程ではインドへの期待が大きかったです。離脱の影響はどのように見ていますか。
「少なくとも、現時点では影響はそこまで大きくないのが現実です。インド経済のポテンシャルの大きさは間違いありませんが、これからの国です。インドの参加、不参加にこだわりすぎるのは、個人的には疑問でした」
「インドには最終財を製造するメーカーが投資していますが、それは今後の国内市場の成長への期待です。東アジアの現在のサプライチェーンの広がりを見ていると、インドはそこに組み込まれているとはいいがたい状況です。RCEPは東南アジアや中国に広がっているサプライチェーンを更に広域に拡大・深化させるという各国の認識があり、インドが今置かれている状況とは必ずしも重なりません。インド国内の貿易赤字に対する姿勢を見て、その点は強く認識しました」
「インド経済はこのままでは将来的には立ち行かなくなるという危機感や、よって保護主義を排して国内の規制を緩和し、国を超えたサプライチェーンにこれまで以上に参加していくべき、という議論もインド国内にあります。ただ、現状ではその選択は簡単ではありません」
「インドは、グローバル化の波に乗って成長したい意欲はあっても、それに伴う痛みを背負う覚悟が未だ十分にできていないのが現状です。日本や他の国々のインドへの期待に反して、インド自身は国内の一部セクターの痛みを背負いきれていません。例えば、日本はインド太平洋戦略と絡めて、RCEPへのインドの参加を求めていましたが、インドからするとRCEPとインド太平洋戦略を結びつけて考える状況にはないわけです。インドと他の国々のRCEPに対する認識のギャップが大きく横たわったままです」
「各国はインドに対して、『いつでも戻ってこられますよ』という今のスタンスを崩す必要はないと思います。インド自身がRCEPに参加することを選択するのを待つしかありません」
経済の実情に合わせた政策を
ーRCEPは完成形ではありません。RCEPを発展させるには日本はどのような意識を持つべきでしょうか。
「サプライチェーンの多元化・拡大は、今の日本の重要なテーマです。RCEP事務局の設置や合同委員会の開催などの規定も盛り込まれていますが、ルール整備を継続的にしていこうとする意識は引き続き不可欠になります。
また、今回電子商取引や知的財産権の分野が共通ルールの対象になった意義は非常に大きいです。実効性を担保するためにも、協定の着実な履行をモニタリングしていくことと、一層の制度化が求められるでしょう」
ー通商政策を考える上で米国の今後も注目されますが、TPPへの早期復帰は非現実的との見方が支配的です。中長期的な世界の通商秩序はどのように変化していくと思われますか。
「いくつものメガFTAのルールが並立する状態が、統治する側(国家)にとって、非常に問題になる時期が来るのではないでしょうか。今、世界を見渡すと地域ごとにFTAがいくつも存在しています。この状態はFTAを使う主体(企業など)からすると、大きな問題にはなりません。FTAがいくつあろうが、少し手間はかかりますが、自社のオペレーションに関係あるところの関税やルールだけ調べればいいわけですから。ただ、各国政府、すなわち統治する側からすると、いくつものルールが錯綜している状態は全体像を把握して対処することが難しい。ですから、これらを、すり合わせるという話は遠からず出てくると思います」
「また、各国が、中長期的に通商政策の位置付けを変えなくてはいけない時期におそらくさしかかっています。ここ30年を振り返ると、冷戦が終わり、モノ、カネ、ヒト、情報がボーダレスに動き、グローバル化が拡大してきました。もちろん、プラスの側面が大きいのは否定できません。特にアジアは都市化が進み、衛生環境も改善され、中間層も増えました。一方で、弊害もありました。東アジアでいえば、サプライチェーンに関与できる経済主体と、そうでない経済主体との格差は広がりました。環境への負荷も重くなる一方ですし、労働者の権利も国によっては十分に保護されないままです。アジアの場合、中間層は拡大しましたが、同時にそこから取りこぼされて貧困から抜け出せない層も一定数生み出されています。今後こうした歪みはより大きくなるはずです」
「従来の通商政策は、そこは取りあえず脇に置いて、国を開き、経済の発展を優先してきました。果たしてそれだけでいいのか。それに向き合う形で政策を組まないといけない時期にきているのではないでしょうか」
日本がとるべき戦略は
ー具体的なアイデアはありますか
「『フェア』がキーワードになるのでは、と考えています。グローバル化には弊害もあることは昔から指摘されていますが、一周回って、グローバル化がもたらす弊害が改めて強く意識される時代になってきています。そうした状況を是正して、サスティナブルな発展を実現する考え方として、「フェア」が一つの柱になりうるのではないでしょうか。国や立場が異なる人々を説得するときには、力も大事かもしれないけれど、何が「フェアで正しい」のかということが重要になってくる気がしています。RCEPやTPPなどの経済秩序に関わるような枠組みでフェアを強調して、それが担保されるルールづくりを意識する。そして、それを主導するのが、日本がとるべき戦略としてもいいはずです」
「もちろん、国内の産業界の意向もあるでしょう。また、現在の各メガFTAの規律内容を超えるようなルールを導入することについては、アジアの各国が難色を示すかもしれません。それぞれの国の経済状況によってもスタンスは違うはずです。ただ、どの国もいずれ直面する壁になるはずです」
「例えば、環境問題には、中国もかつては関心を示していませんでしたが、今では重要な課題になっています。環境は、発展したい国からすると足かせに見られてきましたが、企業にしてみれば今では無視できない要因のひとつです。ESG投資の流れをみてもそれは明白です。環境に配慮した企業に投資する動きは昔からありましたが、今は環境を無視する企業は市場から淘汰されます。かつては、きれい事と見られていた取り組みが、きれい事ではなくなってきています。『フェア』と聞くと理想論に思われるかもしれませんが、日本はそうしたメッセージを通商政策で打ち出すのもひとつの手ではないでしょうか」