政策特集RCEPの世界へようこそ vol.5

交渉妥結の裏にアジアシフトの30年 通商政策を振り返る

【師弟対談】伊藤元重東大名誉教授vs田村英康経済連携交渉官

伊藤元重東大名誉教授と経済産業省の田村英康経済連携交渉官


 東アジア地域における初のメガEPA(経済連携協定)となるRCEP(地域的な包括的経済連携)協定。近年の日本の通商政策における「アジア戦略シフト」の結実であり、また日本にとっては初のEPA相手となる日中韓を含む広域的な経済連携としての期待も大きい。交渉の歴史を振り返りつつ、今後の課題について伊藤元重東京大学名誉教授と、教え子でもあり、現在、通商交渉の最前線に立つ経済産業省通商政策局の田村英康経済連携交渉官が語り合う。

底流はすでにあった

田村 先生は私の学生時代からアジアの通商交渉と深い関わりをお持ちで、さまざまな形で政府の通商政策に関与、提言をされていたことを記憶しています。2016年の環太平洋パートナシーップ協定(TPP)の交渉妥結(米国は17年に離脱)から2020年11月のRCEP署名に至る最近の動きを日本の通商政策における「アジアシフト」や「EPAシフト」の観点からどうご覧になっていますか。

伊藤 日本のアジアに対するアプローチは1997年のアジア通貨危機を境に変化しました。アジアの経済成長の波に乗り、日本企業の現地進出が加速したそれまでの流れから、経済再建を含め、日本がこの地域とどう向き合うのかが問われるようになったからです。当時、私はある経済ミッションの報告書で、アジア中心の経済連携協定を進めるべきだと主張したことを記憶しています。これに対してGATT(関税と貿易に関する一般協定)の精神に反するような経済連携協定を推進するのはいかがなものかとの声もありました。ただ、(経済連携へ向けた)底流はすでにあり、シンガポールやメキシコとの経済連携につながっていきました。

田村 それは、私がまさに先生のゼミに入った時期と重なります。アジア通貨基金(AMF)やASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3(ASEAN10カ国と日本、中国、韓国)によるFTA構想という流れが出てきた頃ですよね。さらにオーストラリアやインドといった新たなプレーヤーもこの地域に加わってきた。

交渉とは「自転車に乗るようなもの」

伊藤 アジア太平洋を中心に新たな秩序を形成する動きが進む一方で、日本はふたつのことから逃げてきました。ひとつは巨大な貿易相手国である中国、韓国、米国とのFTA。もうひとつはオーストラリアやカナダをはじめとする農業大国との交渉です。転換点となったのは2013年の日本のTPP交渉参加表明です。結果的に米国は離脱しましたが、このダイナミズムがメガリージョンの流れにつながっていったわけです。

田村 世界貿易機関(WTO)による多国間の枠組みが機能しにくくなったことも背景にありますね。

伊藤 そうです。通商問題はマルチ(多国間)、リージョナル(地域間)、バイ(二国間)、ユニラテラル(一方的な自由化)の四つの次元で捉える必要がありますが、二国間の枠組みには限界が見えてきた。ASEANが諸国諸国とのが経済連携協定に前向きであり、すでに多くの国と協定を締結済みだったこともRCEP交渉の進展の背景にあるでしょう。

伊藤氏

田村 そういえば、私が社会人になって間もない頃、シンガポールとの経済連携に向けた官民共同研究プロジェクトの場面に資料を届けに行ったら先生がいらした。いま今思えば、アジアにおける経済連携の黎明(れいめい)期でしたね。

伊藤 2002年に締結された日本・シンガポール経済連携協定は、日本、シンガポール両国の財界関係者とともに議論を重ね、その成果を広く産業界や社会に波及する流れを生み出したことが特徴的でした。ゴー・チョクトン首相(当時)は「これは21世紀FTAでなければならない。関税撤廃はもとよりそれ以外の分野も積極的に議論しよう」と言っておられた。その後の通商交渉の下地になる有意義な会議だったと思います。

田村 RCEPの関わりが深いところでは日中韓FTAの交渉開始前の共同研究もあります。こちらはどう振り返りますか。

伊藤 日中韓FTAについては、2003年から、まずは民間の研究機関を中心に議論を進めてきました。当時、総合研究開発機構(NIRA)の理事長を拝命していた私は、日本側の代表を務めていました。三カ国の枠組みの重要性については各国とも異論はありませんでしたが、どこまで具体的に進めるとなると難しい面があったのは事実です。当時のことを思い返すと、毎年のように同じ議論を繰り返しており、将来的な方向性を見いだせなかったことを記憶しています。日中韓のそうしたやり取りを思い出すと、その三カ国も入ったRCEPが署名されて意義は大きいと思います。TPPもそうですが、構想から実現に時間がかかるのはやむを得ない。大切なのは続ける努力を重ねることです。通商交渉は『自転車に乗るようなもの』と表現されますが、こぎ続けないと倒れてしまう。特に日本にとってRCEPは、関税の削減、撤廃によってもたらされる効果は大きく、日中韓をつなぐ初のFTAとの意義があります。

田村氏

田村 私自身の経済連携協定との関わりでお話すると、米国留学から帰国した06年に、日・ASEAN交渉やその中で残っていた日・ベトナムや日・インドネシアの交渉や日・オーストラリアの経済連携の立ち上げに関わりましたが、当時、関税以外のルールといえば知的財産権が中心で、(WTOが加盟国に遵守すべき知財の基準を定めた)TRIPs規定にどの程度の水準のものを追加するかという議論が中心でした。しかし米国がTPPを通じてこの地域の交渉に加わるようになったことで大きく変わったのは例えばデータの自由な流通を規定する動きです。

伊藤 翻ってみれば、GATTの成功は限られた分野でありながらも標準的なルールを設けることができた点にあります。とりわけウルグアイラウンドまでは先進国はこれに積極的にコミットする一方、途上国は最恵国待遇を通じて貿易自由化の恩恵に浴すことができるようにすることで機能を発揮していました。その役割はWTOに引き継がれたわけですが、残念ながら、いま世界が直面する知的財産権や金融サービス、投資をはじめ経済のグローバル化に伴い浮上するさまざまな課題に、多国間の枠組みが対応するのは困難になりつつある。WTO以外でも、OECD(経済協力開発機構)や金融の世界ではBIS規制(バーゼル規制)といった多国間のルール形成を進める場はあるのですが、必ずしも大きな成果を上げられているとは言えない。加えてデジタル技術の進展や人権、環境といった問題も議論の俎上にあります。

大局的な視点あってこそ

田村 TPPをはじめ日本が締結する経済連携協定は投資や知的財産、電子商取引など、WTOが規定する以上の内容(WTOプラス)を盛り込んでいますが、RCEPでも同様の内容を盛り込んでいます。参加15カ国がこうした課題にコミットしていることを踏まえれば、その成果を今後にどうつなげていくかが問われているわけですね。

伊藤 1980年代から90年代を振り返ると、貿易交渉の世界は先進国間の議論で閉じていて、新興国まで巻き込んで自由化やルールづくりの議論を進めていくことにはならなかった。そうした観点でRCEPのように多様な国が参加する枠組みで、貿易自由化やルール整備の議論が進んだ意義は大きいと思います。一方、WTOの仕組みが脆弱化し、その精神に反するような保護主義的な動きも懸念されるなか、RCEPに限らず、すべての経済連携協定には実効性をどう担保するかが一層問われてきます。私はRCEPにおいて、WTOにはなかった規律を多く盛り込んでいるのは意味のある成果だと思いますが、そのような話をすると「いくらルールを作っても、守らない国も出てくるだろう」との声もあります。

田村 RCEPは発効から5年後に見直すことが規定されています。また、合同委員会や事務局が設けられ、継続的に協定の履行状況をチェックする仕組みを導入していることも特筆すべき点です。また、インドは最終的に参加を見送りましたが、多様な国が参加している点も特徴です。その点では「ミニWTO」と表現できると指摘する有識者もいらしゃいます。

伊藤 いずれの国や地域にとっても貿易の自由化が経済活性化につながることは明らかです。94年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で採択したボゴール宣言では、参加国は「2020年までに自由で開かれた貿易および投資を達成する」と謳いましたが、CPTPPもRCEPもその一里塚であり最終的にはひとつになる。こうした大局的な視点を持つことも重要だと思います。かつて米コロンビア大学のバグワティ教授は、地域統合の動きがマルチラテラルな自由化やルール形成に向けた、手段(「ビルディング・ブロック」)になるべきであり、障害(「スタンブリング・ブロック」)で終わってはならないと主張しました。さまざまなFTAが形になってきた今だからこそ、この言葉をあらためて想起すべきです。

田村 一方で、RCEPをはじめ地域の経済連携交渉に携わる中で印象的なのは、アジア諸国の経済や産業実態と自由貿易の理想論との相克です。

伊藤 ベルリンの壁崩壊は世界の大きな転換点ですが、その後、WTOが発足し、6年後に中国が加盟する30年あまりを「ハイパーグローバル化」と称し、国境を越えた分業が加速的に進展し、人の移動も急増しました。それは世界の経済を活性化させる一方できしみも生じている。急激なグローバル化の結果として生じる所得分配の問題は一例です。世界がこうした課題に直面するなか、現実的な方策を探る、あるいは極端な保護主義をいかに抑えるか、難しい局面にあります。だからこそ対話や交渉の機会は重要であり、RCEPやTPPの今後に期待しています。

田村 「自転車をこぎ続けるようなもの」「スタンブリング・ブロックではなく、ビルディング・ブロック」といったお話を伺い、あらためてRCEPをはじめとする経済統合を進める意味を実感しました。できあがった協定をしっかり遵守してもらい、将来の改善やより大きな経済統合につなげていくべき、力を尽くしたいと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。